
|
|
|
|
| |
胃の痛みは、以前継続中。そんなわけで、グレート・ジンバブエ行きは諦めることにした。う~ん、マシンゴまで来ていて、グレート・ジンバブエに行かない旅人は珍しいだろうなあ~(笑)。更に、ジンバブエに入国したのに、ビクトリア・フォールズにも行かない旅人は、かなり貴重な存在だろうなあ~(笑)。というか、他にいないでしょ(笑)!
どっちも、行きたくないわけじゃないんだけれど、胃が痛すぎる。治ってから行くと、日数が足りない。まあ、どちらも、入場料は高額だし、節約にもなるってことで納得するしかないね!
ちなみに、ジンバブエという国の歴史を考える上では、1人のイギリス人を外すわけにはいかない。セシル・ジョン・ローズである。彼は、「アフリカのナポレオン」と呼ばれ、現在でもダイヤモンド世界メジャーとして君臨する「デビアス」の設立者である。
ローズは「イギリス南アフリカ会社」を設立。1894年、この会社は、アフリカ南部の広大な土地を統治下に置いた。そして、その地を「ローデシア(ローズの家という意味)」と名づけた。1896年、ローズは失脚するものの、1923年には白人のみの住民投票で「南ローデシア自治政府」が樹立、1924年には北ローデシアがイギリスの直轄植民地となった。
1953年には、現在のザンビアとマラウイとともに、「ローデシア・ニヤサランド連邦」を結成するものの、1963年には連邦は解消される。すでにマラウイでの日記に書いたように、この連邦は南ローデシアにとってのみ都合が良いものだったので、解消となったのはアタリマエ…。
この南ローデシア、一貫して白人主義の国であった。黒人の抵抗運動は武力闘争へと進み、1961年にはソビエトが支援するジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)、1963年には中国が支援するジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)がゲリラ戦を始める。
勘違いする方はいないと思うけれど、ソビエトや中国が支援したのは黒人の人権を考えてということではない。彼らにとっては、自分たちの仲間となる国がほしかっただけのこと。まあ、ソビエトや中国がしてきたことを見れば、“人権”なんて言葉を口にできる国ではないことは明白。
一方、白人側も、イアン・スミスがローデシア戦線を結成。1964年には南ローデシア植民地政府の首相となり、黒人の抵抗運動を徹底的に弾圧した。こうした動きにイギリスは、黒人の参政権を認めた上での独立を求める。しかし、スミス率いる政府は要求を拒否。1965年、ローデシア共和国として独立する。
この独立に国際社会は反発する。国連は、1966年に部分的経済制裁、1968年に全面経済制裁を実行する。しかし、ローデシアと同様にアパルトヘイト政策を進めていた南アフリカや、ポルトガル領だったモザンビークから物資が流入。経済制裁の効果は、ほとんどなかったと言ってもよかった。
一方、戦闘は激化の一途をたどり、「ローデシア紛争」と呼ばれる内戦へと発展してしまう。この戦闘激化は、好調だった南ローデシアの経済にも悪影響を与えるようになる。
ついに、1979年、ソールズベリー協定に基いて「ジンバブエ・ローデシア」が成立。初の黒人政権が誕生した。しかし、依然、白人の既得権益が大きかったことに黒人側が反発。抵抗運動は激化してしまう。結果、ランカスターハウス制憲協定に基づいて新憲法を制定し、一旦イギリスの植民地に戻した上で、1980年、ジンバブエ共和国としてイギリスから独立することになった。
ここまでも苦難の道程であったジンバブエ…。しかし、黒人政権が樹立されてからも、更なる苦難がジンバブエを襲うこととなる。それは、ロバート・ガブリエル・ムガベという人物によって引き起こされたと言っても過言ではない。続きは後日…。
で、旅日記…。といっても、書くことは、あんまりない…(笑)。宿で安静にしていただけだから。夕食は、昨日と同じ店に行く。今日はチキンのセレクトを間違えてしまった…。ほとんど食べられることろがなかった。失敗、失敗…。
安静にしていたからなのか、アフリカ脱出の日が1日近づいたからなのか、夜になると胃の調子は少しは良くなってきたようだ。21時の段階では、部屋にオリエント伯爵1人というのも、ストレスが少なくてすんでいる理由かもしれない。
さすがに、明日は移動することにした。何事もなく、今日1日が過ぎ去ってくれるのを祈るばかりである。楽しいことなんてなくてもイイ。何事もなければ、それでイイのだ…。 |
|
|
|
|
Produce by "Piccolo Posto a KAZUNO"
~ 鹿角の小さな場所 ~
Contact Information : "piccolo.posto.a.kazuno@gmail.com"
Since : Aug/2024 |
| |