
この日は久しぶりに
醤油味シーフード系パスタ
シーフードの内容は
ツナ缶とカキ缶
なかなかに美味しかった |
昨日は遅くまで調べ物。そんなわけで、起床は10時を過ぎていた(笑)。日曜日ということで、許していただきましょう!!!思った以上に寝てしまったので、YasさんとMarさんは出発した後だった。見送りができなかった…。すいません…。
この日はノープラン。というか、ケープ・タウンではユックリすることが決定済み(笑)。まあ、宿が快適なので問題ではない。いろいろな旅人とも会えるしね!
さて、今滞在している南アフリカ。他のアフリカ諸国とは、まったく違う歩みをしてきた国である。南アフリカの地にヨーロッパ人が初めて到達したのは、1488年、ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスである。同時に彼は、喜望峰を発見し、海路でインドまで到達できることを確実にしたのである。
その後、同じくポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが、アフリカ南端をまわってのインドまでの航海に成功。しかし、アフリカ南部には、これといった街も産物もなかったため、約100年にわたってヨーロッパから注目されることはなかった。
やがて、貿易が盛んになってくると、当時の海上交易の覇権を握っていたオランダ東インド会社が、アフリカ南部を補給基地として考えるようになってくる。1652年、オランダ人のヤン・ファン・リーベックがアフリカ南部に入植地を建設し、ケープ・タウンと名付けられた。また、この地はケープ植民地と呼ばれた。
1657年には、最初の自由移民が入植。その後、コイコイ人を迫害しながら、少しずつ入植は進んでいった。しかし、北には砂漠が広がり、東にはバントゥー系のコサ人が頑強に抵抗を続けた。そのために、入植地の拡大は足踏み状態となっていた。
入植者たちは、オランダとは異なる民族集団を形成するようになり、ボーア人(アフリカーナ)と呼ばれた。使用する言語もアフリカーンス語と呼ばれる、オランダ語を基にしてつくられた新たな言語を話すようになっていった。
この地には、奴隷の輸入も行われた。こうして、先住民族であるコイコイ人、ヨーロッパからの入植者であるアフリカーナ、奴隷として連れてこられた黒人が住む土地となっていた。更に、異なった人種間で結婚をしたり、主人と奴隷の同棲が行われたりした結果混血が進み、いっそう複雑な人種構成となっていった。
1789年、フランス革命が始まると事態は急展開を見せる。1792年、フランス革命に干渉するオーストリアとフランスが開戦。フランス革命を脅威とした諸国が「第1次対仏大同盟」を結びフランスと対立する。
「フランス革命戦争」と呼ばれるこの戦争において、ナポレオン・ボナパルトがイタリア方面軍の司令官に抜擢された。ナポレオンは連戦連勝を収め、1794年、オーストリアとの単独講和に成功。このときに結ばれた「カンポ・フォルミオ条約」によって、第1次対仏大同盟は崩壊し、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得し、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を手に入れた。
1795年は、フランスはネーデルラント共和国を占領。こうして、オランダ東インド会社の母国が消滅する。このとき、イギリスがオランダ東インド会社の領有地を占領する。1798年、オランダ東インド会社は、領土と権利をバタヴィア共和国(フランスの衛星国)に移行した。
1802年、イギリスとフランスとの間で「アミアンの和約」が結ばれ、ケープ植民地からイギリスが撤退し、バタヴィアへ返還することとなった。しかし、アミアンの和約の条文は、ほとんど実行されることはなく、翌年には再び両国は戦争状態となった。
1806年、ブラーウベルクの戦いにおいて、イギリスが勝利し、名実ともにケープ植民地はイギリスの支配下となり、1814年、「イギリス領ケープ植民地」となった。
また、この頃、黒人社会でも大変動が起きていた。1816年、シャカ・ズールーによってズールー王国が成立。近隣部族を次々と滅ぼし、勢力を拡大していった。スワジ人やソト人は居住地域で防御を固めていったものの、多くの部族はズールー地域から大移動を始めた。この混乱をムフェカネ(大壊乱)と呼び、一帯は人がまばらに住む荒野と化した。
ケープ植民地では、イギリス人とアフリカーナの対立が先鋭化する。公用語は英語に変わり、1820年にはイギリス系移民が到着、アフリカーナは二級国民あつかいとなり、近隣のアフリカ人諸民族よりも冷遇されるようになった。
1833年には奴隷制度が廃止。イギリス系移民が多い西部は商業地帯となっており影響が少なかったのに対し、アフリカーナが多い東部は奴隷に依存した大農園中心の経済となっており影響は深刻だった。
こうした背景を受けて、アフリカーナの有力者は「グラハムズタウン会議」で、イギリスからの独立と移住を決定した。移住先は、ナタール(現ダーバン)であった。この移動は、1835年に始まり、「フォールトレッカーズ」と呼ばれ、東ケープの5分の1にあたる人々が参加した。
アフリカーナは、本隊がダーバンに、その他にも、フリーステイト州のウィンバーグ、プレトリアといった地に定住することになった。ダーバンを中心とした地域には、1839年に「ナタール共和国」が建国された。しかし、統治能力が弱く、建国期の混乱をイギリスにつけ込まれ、1842年にイギリスに降伏し消滅した。
フリーステイト州を中心とした地域には、1854年、ブルームフォンテーン協定によって「オレンジ自由国」が建国された。また、プレトリアを中心とした地域には、1852年、サンドリバー協定によって「トランスヴァール共和国」が建国された。
ここまでで、一区切り…長っ(笑)。この日は、ホント、ユックリした1日だった。だって、宿の外に出なかったもんね(笑)。食事は、すでに買っていた材料があるので問題なし。日曜日なのでアルコール飲料も買えないし、外に出る必要がなかったてこと…なんか違うかな(笑)?
それでも、いろいろと調べ物があったので、けっこう忙しかった。忙しいかった…日本で仕事をしている人から叩かれるね。ごめんなさい。 |