世界旅HOME   西アジア   イスラエル   2013年5月  
 
エルサレム エルサレム エルサレム→アンマン
 

 

エルサレム旧市街の城壁



神殿の丘にある
アル=アクサー・モスク


神殿の丘にある
岩のドーム



嘆きの壁


↓ヴィア・ドロローサ↓

第2留


第3留


第4留













エルサレム旧市街



エルサレム新市街



イスラエルの地でも
やっとビールと対面できた



Tdさんと


Tshiさんと
 今日は土曜日。この国では、夕方(日没という説もある…)まで機能不全に陥るという。でも、昨日宿にやってきたTdさんと一緒に、エルサレムの旧市街に行くことにした。
 宿を出て、テクテクと旧市街まで歩いて行く。30分前後で旧市街に到着する。オリエント伯爵基準ではないものの、エルサレム旧市街は世界遺産に認定されている。

 ヤッフォ門まで来てみると、パレードのような催しをしていた。そのせいだろうか、ヤッフォ門は通行禁止となっている。これでは、城壁内にある旧市街に立ち入ることはできない。
 仕方がないので、シオン門まで足を伸ばすことにした。ところが、この門も通行禁止。ちょっと、警察官にかけあってみるものの、まったくもってアカン感じである。いったい、何があるんだ???
 で、次の門である糞門[ふんもん]という興味深い名前の門まで行くことにした。この門からは旧市街に入ることができた。で、その先にあったのが、有名な「神殿の丘」であり、「嘆きの壁」だった。

 神殿の丘は、イスラム教の聖地であり、アル=アクサー・モスクと岩のドームが建てられている。イスラエル領ながら、この場所だけはイスラム教指導者によって管理されている。しかし、残念ながら入ることはできなかった。でも、外から見ることができたから良しとしよう。
 嘆きの壁は、ユダヤ教の聖地であり、エルサレム神殿が建てられていた時代に神殿を取り巻いていた外壁の、西側部分だったとされている。イスラエル建国後も嘆きの壁はヨルダン領だったために、ユダヤ教徒は訪れることができなかった。そのことも、第3次中東戦争の理由の1つとされている。まあ、率直に言って、「壁やん…」てな感想だった。

 ここはユダヤ教地区。ここからアルメニア正教地区をめざすものの、柵と警察官によって道路が遮断されている。いろいろと歩きまわってみるものの、絶対に行くことができない。何なんだ???
 そうこうしているうちに、今までと景色が変わったような気がした。気をつけて見てみると、看板からヘブライ語は消えアラビア語が書かれていた。イスラム教地区に入ったようである。

 そうこうしていると、偶然に「ヴィア・ドロローサ」の「留」の場所に出てきた。ヴィア・ドロローサとは、イエスが十字架を背負って歩いた道であり、刑場となったゴルゴダの丘まで続いている。実際には、イエス時代のエルサレムは破壊されており、本当に同じ道を歩くことは不可能である。まあ、そのあたりは宗教なので、「信じる者は救われる」といったところなのだろう…。
 偶然に見つけたのが「第3留」だったので、「第1留」まで行ってからヴィア・ドロローサを歩くことにする。実際には、「第1留」の場所はよく分からなかった…。
 で、「第4留」までは行けたけれど、「第5留」に行く途中で道路は遮断。キリスト教地区にも入れないらしい。どうやら、土曜日ということではなく、この日はキリスト教にとって特別な日らしい。そんなわけで、アルメニア正教地区とキリスト教地区には立ち入ることはできないようだ。

 やっぱり、オリエント伯爵とは歯車が噛み合わない国イスラエル。神殿の丘に続いて、聖墳墓教会(キリスト教地区)にも聖ヤコブ大聖堂(アルメニア正教地区)にも行けないことになった。
 ただし、エルサレム旧市街の街歩き自体は、なかなかに興味深かった。Tdさんと、くだらない会話をしながら、楽しい時間を過ごすことができたのは満足!!!

 で、その後、エルサレムの新市街に足を伸ばす。土曜日なのでゴースト・タウンのようだった(笑)。そんな中でも、頑張って(笑)、ビールを購入することに成功した。で、ゴースト・タウンなんで、道端で座って飲んじゃった(笑)。
 たくさん歩いたので、けっこう疲れた…。で、宿に戻ることにする。行きとは反対の道を、テクテクと30分前後。宿に到着。
 ノンビリと過ごし、セットになっている夕食を食べて、日本人の旅人と話をする。アーティストのTshiさんは、明日、パレスチナに行って分離壁に“落書き”をするらしい。とても興味があるのだけれど、歯車が噛み合わないイスラエルは今宵限りの滞在の予定。オリエント伯爵を含めて、4人の同行者も決まっている。
 と思っていたら、そのうちの2人が、明日もイスラエルに留まるとのこと。マジですか!!!イスラエルからヨルダンへの国境越えは、公共交通機関が整備されていないので、タクシーを使うことが多くなる。そのためにも、4人そろっての行動がベター。う〜ん、最後の最後まで、歯車が噛み合わない国がイスラエルというわけか…。

 そんなイスラエル建国から現在までを簡潔に…。1947年11月29日、国際連合は「パレスチナ分割決議」を採択し、「パレスチナ内戦」が発生したことは以前に書いたとおり。この内戦をイギリス政府放置する。イギリス政府が、パレスチナの地での統治能力を喪失していたのは明らかであった。
 1948年4月9日には、デイル・ヤシーン事件が起きる。この大量虐殺事件は、ユダヤ人テロ組織であったエツェル(イルグン)とレヒによって引き起こされた。また、裏で操っていたのは、ユダヤ人の主力軍事組織であったハガナーであるとも言われている。なお、この大量虐殺事件は、ダレット計画と呼ばれる、アラブ系住民のパレスチナからの大量追放計画の一環だったらしい。

 1948年5月14日、イギリスのパレスチナ委任統治が終了。同日、ダヴィド・ベン=グリオンは、イスラエル独立宣言を発表。すぐさま、エジプト、イラク、レバノン、シリア、トランスヨルダンが戦争を宣言し、第1次中東戦争が勃発する。後に、モロッコ、サウジアラビア、イエメンも部隊を派遣している。戦力は、アラブ側15万人、ユダヤ側3万人であったとされる。
 アラブ側の主力は、ヨルダン軍(精鋭は「アラブ軍団」と呼ばれた)とエジプト軍であった。5月18日にはヨルダン軍がエルサレムを包囲。28日にはエルサレム旧市街が降伏した。エジプト軍はシナイ半島からパレスチナに侵攻した。
 国連は停戦を決議し、双方が受け入れた結果、6月11日より4週間の停戦が実施された。この停戦中、ユダヤ側は、ハガナーを母体としたイスラエル国防軍に指揮権を一本化し、各種装備の充実にも務めた。それに対して、アラブ側は、思惑の違いから調整に失敗している。
 停戦終了後、ユダヤ側は反攻を開始。アラブ側を次々に撃破していく。善戦したのは、ヨルダン軍だけだったと言っても過言ではない状況だったそうだ。イスラエルは、1949年2月にエジプトと停戦協定を結んだのを皮切りにして、7月までには交戦国との停戦協定を締結。
 第1次中東戦争の結果、ガザ地区はエジプト領に、エルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区はヨルダン領となったものの、パレスチナの地の大部分はイスラエル領となったのである。

 こうして、イスラエルは“実力”で建国された。1949年5月11日には国連にも加盟。1956年10月29日、イスラエルは、イギリス、フランスと共同戦線をはり、第2次中東戦争を引き起こす。イギリスは、スエズ運河の利権を取り戻すため。フランスは、アルジェリア戦争の戦局を有利にしようとするため。イスラエルは、紅海への出口を確保するため。3ヶ国とも身勝手な理由であることは明らかであった。
 エジプトの降伏間近と思われた第2次中東戦争は、エジプト側に立ったUSAやソビエトの圧力によって停戦。イギリス、フランス、イスラエルは撤退セざるを得なかった。停戦後、初のPKOが実施されている。

 1967年6月5日、イスラエルは、エジプト、イラク、ヨルダン、シリアの領空を侵犯し、各国の航空機を殲滅。制空権を奪った上で、地上軍を侵攻させた。あっという間に、ガザ地区、エルサレム旧市街、ヨルダン川西岸地区に加え、ゴラン高原、シナイ半島まで占領する。エジプトとヨルダンとの停戦が6月8日、シリアとの停戦が6月10日。「六日間戦争」とも呼ばれる第3次中東戦争である。
 1973年10月6日、エジプトとシリアは、イスラエルに対して奇襲攻撃を敢行。アルジェリア、イラク、ヨルダン、クウェート、リビア、モロッコ、サウジアラビア、スーダン、チュニジアが支援した。緒戦でイスラエル軍は大敗北を帰し、シナイ半島西部とゴラン高原を喪失した。しかし、その後は反攻に成功し、カイロとダマスカスの近郊まで侵攻した。この戦争は、10月22日、USAとソビエトの仲裁によって停戦している。
 敵対関係を続けたイスラエルとアラブ諸国であったものの、キャンプ・デービッド合意に基づいて、1979年3月26日にエジプト・イスラエル平和条約が締結される。その後、現在に至るまで、エジプトとは比較的良好な関係を築いている。しかし、シリアおよびレバノンとは緊張状態が現在でも続いており、何度も侵攻を重ねている。

 さて、寝るとしますか…。
 

 
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