世界旅HOME   西アジア   イスラエル   2013年5月  
 
エルサレム→ヘブロン
→ベツレヘム→エルサレム
エルサレム エルサレム
 

 

この日
MRさんが宿を離れた

さっぱりとして
気持ちのイイ娘だった

話せば話すほど
オモロイ娘であることも
分かった(笑)

そういえば
KamoMさんも
Aknさんも
Azzuさんも
ヨルダンで出会った娘は
みんな
気持ちのイイ娘だった

何時か何処かで
再会できると良いなぁ



この日の夕食

この宿には料金設定がない
いわゆる
寄付で賄われている
(相場はあるんだけど)

食事は3食OK
というか
いつ食べてもOK

日本人としては
とても不思議な形態の
宿泊施設である

このような宿が存在するのは
エルサレムが
宗教都市だからなのかなあ



宿から見える夜景

残念ながら
エルサレム旧市街の方向は
見ることができない
 今日は金曜日。この国では安息日となっているそうだ。だかというわけではないのだけれど、オリエント伯爵も休息日…。というか、理由はあるわけで、パレスチナの地についての理解が難しすぎる。ちょぴり、詳しく調べたくなったのである。
 てなわけで、今日は、イスラエル建国直前までのお話…。まあ、このあたりの事柄が、現在の複雑なパレスチナの地の現状の出発点になっていることは間違いない。興味のない人は、飛ばしてくださいね!

 第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北し、中東の地は「委任統治領パレスチナ」と「委任統治領メソポタミア」(ともにイギリス)と「委任統治領レバノン」と「委任統治領シリア」(ともにフランス)に4分割された。
 オスマン帝国の敗北から遡ること数年…1915年、オスマン帝国下でメッカの太守を務めていたフサイン・イブン・アリーと、エジプト・スーダン駐在高等弁務官を務めていたヘンリー・マクマホンの間で「フサイン=マクマホン協定」が結ばれる。
 この協定では、アラブ民族がオスマン帝国に対して「アラブ反乱」を起こす見返りとして、アラブ民族による独立国家の建設を約束していた。ただし、その範囲は限られており、地中海沿岸部は除かれていたし、パレスチナの地についても途中で除かれた。

 この協定が結ばれた翌年の1916年、オスマン帝国の中東領の分割を約した「サイクス・ピコ協定」が、イギリス・フランス・ロシアの間で結ばれる。この協定によって、シリアの地はフランスの勢力範囲とされ、フサイン=マクマホン協定との間に矛盾が生じることになった。
 更に、翌年の1917年、イギリスの外務大臣だったアーサー・ジェイムズ・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティのリーダーだったライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに書簡を送る。これが「パルフォア宣言」と呼ばれるものである。
 この書簡の中では、パレスチナの地にユダヤ人の「National home」をつくることにイギリス政府が賛成の意と支援を約束している。ここに登場する「Notional home」という言葉がクセモノで、外務省の訳では「国民的郷土」とされている。つまり、「国家」ではない。
 また、当時の(現在も…)常識として、民族自決の原則を適用するのであれば、アラブ人が多数を占めるパレスチナでは、主権がユダヤ人にないのは当然のこととなる。更に、この書簡では、パレスチナに居住している非ユダヤ人の市民権や宗教的権利を害してはならないと明示されていた。

 フサイン=マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、パルフォア宣言の3つは、「イギリスの三枚舌外交」と非難を浴びることとなった。条文がどのようなものであったとしても、アラブ側としては中東の地に単一の独立国を樹立できると思っていたし、ユダヤ側としてはパレスチナの地に自らの国家を樹立できると思っていたからである。
 そもそも、“中東”という“他人の土地”のことを、イギリスやフランスが決めるということに問題があるとしか言いようがない。「当時の世界情勢では…」ということは理解できるものの、今となっては「誤りであった」という認識が大切であろう。

 このような“火種”を残したまま、「委任統治領パレスチナ」が誕生したのである。火種を解決する策として、イギリスは「パレスチナ」と「トランス・ヨルダン」という2つの地域に分けて統治することにする。この策によって、イギリスはアラブ人側にもユダヤ人側にも“イイ顔”ができると考えたのである。
 しかし、パレスチナではシオニストの勢力が強くなってくる。シオニストとは、簡単に言えば、パレスチナの地にユダヤ人国家を建設しようとする運動を推進する人々である。こうした動きにパレスチナのアラブ人は反発を強めるようになり、反乱も起きるようになった。
 1937年、イギリス王立調査団は「ビール分割案」を提案する。この分割案では、パレスチナの地は、ユダヤ系住民とアラブ系住民によって分割されることとなっていた。しかし、ユダヤ側もアラブ側も分割案を拒否。アラブ側にいたっては、パレスチナの分割を考えることすら否定された。これは、パレスチナの地にユダヤ人国家をつくることを否定する立場だったので当然のこと。
 ヨーロッパで戦争の危機が高まるなか、イギリス政府は、アラブ側を敵に回すことを恐れ、アラブ寄りの政策に舵を切ることになる。1939年にイギリスから発表された「マクドナルド白書」では、分割案の破棄、パレスチナ国家の10年以内の独立、ユダヤ系住民の移民制限および土地売却規制が盛り込まれていた。

 こうしたイギリスの姿勢に、ユダヤ側は当然に反発を強める。イギリスに対する武装蜂起が発生し、テロも引き起こされるようになった。第二次世界大戦の終了後もユダヤ側の反発は続き、1946年7月22日には、エルサレムの最高級ホテルであるキング・デービット・ホテルで爆弾テロ。このテロでは、90人以上が死亡したとされる。なお、ホテルは、イギリス委任統治当局および軍司令部が使用していた。
 もう、イギリスがパレスチナを統治することは不可能であった。こうして、昨日の日記に書いたように、イギリス政府はパレスチナの地を統治することを断念。国際連合にパレスチナ問題の解決を委ねる。

 1947年11月29日、国際連合は「パレスチナ分割決議」を採択する。この決議は、パレスチナ人口の3分の1にしか過ぎなかったユダヤ人が、パレスチナ国土の半分以上を獲得するというものであった。
 この決議の採択までにも紆余曲折が…。1947年5月15日、イギリス政府の要請を受けて、国際連合パレスチナ問題特別委員会(UNSCOP)が設置される。UNSCOP構成国のうち、カナダ、チェコスロバキア、グアテマラ、オランダ、ペルー、スウェーデン、ウルグアイの7ヶ国はパレスチナを分割する案を勧告。インド、イラン、ユーゴスラビアの3ヶ国はパレスチナを連邦国家とすることを勧告。オーストラリアは棄権した。
 同年11月29日、国際連合総会において、分割案は賛成33:反対13:棄権10で採択された。この背景にはUSAとソビエトが分割案に賛意を示したことと、更にアメリカやシオニスト勢力による圧力があった。もちろんアラブ諸国は反対。イギリスは棄権した。
 こうして、パレスチナの地にユダヤ国家をつくるという悲願を達成したイスラエル側と、パレスチナの地にユダヤ国家をつくることは認められないとするアラブ側の間で「パレスチナ内戦」が勃発するのである。

 はい、もう夕方で〜す。疲れた…。パレスチナの地、複雑すぎる。それにしても、ここでも問題の元凶は欧米諸国。思い返せばバルカン半島もそうであった。イギリスとフランスとロシア(含むソビエト)とUSAという国が存在しなかったら、今の世界は、もっともっと幸せだったのかもしれない。でも、そうなれば、別の国が元凶になるのかな…???
 HPのアップデートをして、セットになっている夕食を食べて、のんびりタイム。宿のある場所は、東エルサレムだったところ。イスラム地区なので、ビールを含むアルコール飲料は売っていない。そんなわけで、イマイチ盛り上がりに欠けるのである…。

 そうそう、この日は、500日目の記念日。かなり記念して良い日だと思うんだけれど、そんな事情もあって、これといったイベントもないままに終了。
 やっぱり、記念日には普通の日になっちゃうんだねぇ…。普通の日どころか、アルコール飲料が入手できないので、自分で祝うことすらできないんだなぁ〜。
 以前から、あまりイイ印象のないイスラエルという国。実際に訪れてみても、滞在していて楽しくない。アルコール飲料が入手できなかったイラン、アルコール飲料が高額だったトルコ、どちらの国も“お気に入りの国”である。そう、アルコール飲料の問題ではないのだ。
 イスラエルの人々とは、どうも歯車が噛み合わない。絡んでも楽しくない。どちらかというと、不愉快なことの方が多い。なるべく早く、出国することにしようと思っている。
 

 
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