
ムハンマド・アミーン
モスク

セント・ジョージ大聖堂


ベイルートの街には
たくさんの教会が建っている

エトワール広場
再建された建物たち

ハリーリ前首相霊廟
この国は
テロと根絶できるのか



ベイルートが
美しい街なのは間違いない

そして
歴史ある街なのも間違いない
(ローマ浴場跡)


そして
戦闘があった街なのも… |
朝起きて、シャワーを浴びて、ゆっくり、のんびり。今日はベイルート市内をブラブラする予定なので、まったくもって慌てる必要はない。どうやら、今日も天気が良さそうである。
トルコからレバノンに移動して、天気の良さに驚いている。空も気持ちのイイ“青色”。さすがに、地中海の国である。この国が、かつてはリゾート地としての地位を謳歌していたのがうなずける。かつては、「中東のパリ」と呼ばれていたベイルート。金融と観光で潤っていた。しかし、すべては過去の話である。
フランスの委任統治領だったレバノンが独立したのは、第二次世界大戦中の1941年11月26日。この地が、歴史的にはシリアの一部であったことは、すでに書いたとおり。元来シリア領だった、ベッカー高原、レバノン北部、レバノン南部の住民は、シリアの首都ダマスカスへの帰属意識の方が高かったとされている。
元々のレバノンであるレバノン中部には、キリスト教マロン派とイスラム教ドゥルーズ派の人々が暮らしていた。一方、他地域には、イスラム教スンニ派、イスラム教シーア派、ギリシャ正教徒(キリスト教)の人々が暮らしていた。また、レバノンにはアルメニア人も一定数暮らしていた。
こうした住民構成だったために、首都ベイルート以外では、人々は宗教によって住み分けを行い、学校や軍隊も宗教によって分けられていた。その結果、レバノンという「国」に対する帰属意識が非常に薄い状態が続いていたのである。無理のある独立だったのである。
こうした薄氷の上のバランスを崩壊させたのがパレスチナ解放機構(PLO)の流入である。ヨルダンを追放された後、多数のパレスチナ難民がレバノンへとやってきた。難民とはいえ、彼らは武器を所持しており、その軍事力はレバノン国軍以上とされていた。
レバノン政府はPLOに対して、自治政府なみの特権付与とイスラエル攻撃の黙認を決定(非公式だったけれど、すっぱ抜かれた)。レバノン南部には「ファタハ・ランド」と呼ばれるPLOの支配地域がつくられた。自国に隣接する地にPLOの支配地域がつくられた事態をイスラエルが静観するはずはなく、レバノン南部やベイルートに攻撃を開始。
手出しができないレバノン政府に見切りをつけた各宗派は、それぞれ民兵組織をつくり武器の調達を続けた。1975年4月13日、ファランヘ党(マロン派)とPLO支持者の間でアイン・ルンマーネ事件が勃発。レバノン内戦が始まる。
戦闘そのものは散発的だったとされる(それでもアカン)。しかし、民兵組織による一般市民の殺戮が繰り広げられたところに、この内戦の醜さがある。特に、週末は「ブラック・マンデー」と呼ばれ、宗派間無差別殺戮が横行。民兵組織が一般市民にIDカードを提示させ、自らの宗派と異なれば、殺害されるか誘拐して殺害される事件が繰り返された。
また、民兵組織は海岸沿いのホテルに立て篭もり要塞化。多くのホテルが崩壊した。ベイルートの街は荒廃し、イスラム教徒・パレスチナ難民が多く住む西ベイルートとマロン派が多く住む東ベイルートに分裂した。こうして、「中東のパリ」と呼ばれ、金融と観光で栄えたベイルートは見る影もない姿となったのである。
内戦の母体となっている各宗派から成り立っているレバノン政府には、内戦を集結させる力などあるはずがなかった。更に、レバノン国軍は機能を喪失する事態となっていた。
戦闘はPLOとアマル(イスラム教シーア派)が優位にすすめ、マロン派は次第に追い詰められていった。また、イスラム教ドゥルーズ派はPLOとの連携を強めていった。
1976年5月、レバノン政府の要請を受けてシリアがレバノンに侵攻。このままPLOやイスラム教ドゥルーズ派が勢力を増していけば、イスラエルによる「レバノン・シリア攻撃」は避けられないと考えての軍事行動であった。
1977年3月、イスラム教ドゥルーズ派の指導者カマール・ジュンブラートは暗殺される。シリアによる和平は失敗。当然にシリアとPLOの関係は悪化。更に、マロン派にも反シリア・パレスチナを旗印とするレバノン軍団と呼ばれる民兵組織が結成された。
劣勢が続くレバノン軍団は、イスラエルの参戦を模索。シリアとイスラエルが交わした「レッドライン協定」に着目する。この協定には、シリア側がキリスト教徒に危害を加えないという条件があった。
1978年、レバノン軍団は、わざと検問でシリア軍と衝突させる。これに対して、シリア側はマロン派の拠点である東ベイルートに砲撃。レッドライン協定違反であるとして、イスラエルは行動を開始。レバノン南部を占領した。レバノン南部は、イスラエルの傀儡として南レバノン軍の支配する地となった。1980年には、レバノンを舞台に、シリアとイスラエルは何度も交戦することになる。
1982年6月6日、PLOによる駐英大使へのテロの報復、PLOのレバノンからの撤退を旗印に、イスラエルがレバノンに侵攻。イスラエル軍は、レバノン軍団やアマル(イスラム教シーア派)と連携して、レバノンに駐留しているシリア軍を壊滅させた。6月13日には西ベイルートに突入し、国際的避難を浴びながらもベイルート包囲を続ける。PLOは徹底抗戦を続けたものの、8月21日には停戦に応じ、30日にはチュニジアに追放された。レバノンには治安維持のために多国籍軍が派遣された。
こうしてレバノンには、親イスラエル政権が誕生するはずであった。そのリーダーは、レバノン軍団のカリスマ若手指導者バシール・ジェマイエルであった。しかし、彼はレバノン軍団本部でテロにより爆死。なお、このテロの報復として、パレスチナ難民キャンプでサブラー・シャティーラ事件と呼ばれる大量虐殺事件が発生した。
バシールの兄であるアミーンが大統領に就任。しかし、カリスマ性に欠けたアミーンは、シリアの勢力を排除することができずに親イスラエル政権とはならなかった。にもかかわらず、イスラム教徒やシリアには強硬な姿勢で臨んだ。
このような時期、ドゥルーズ派の本拠地であったレバノン中部のシューフ山地を巡って「山岳戦争」が勃発。再建された国軍・レバノン軍団とドゥルーズ派・アマル(イスラム教シーア派)が激しい戦闘を繰り広げた。
更に、イランの影響を強く受けアマルから分離したヒズボラの勢力が、多国籍軍に対して自爆攻撃を何度も敢行。山岳戦争での国軍・レバノン軍団の敗北が濃厚になったこともあり、多国籍軍は撤退を決定。イスラエルもサブラー・シャティーラ事件の非難を受け撤退。
こうして、国軍は再び瓦解し、民兵組織が割拠する無政府状態が続くことになった。内戦の長期化によって、宗派内でも利権をめぐって戦闘が繰り広げられるようになった。レバノンには治安維持を名目にシリア軍が再侵攻。ヒズボラはイランが支援。レバノン軍団の新たな指導者サミール・ジャアジャアとレバノン国軍の新たな指導者ミシェル・アウンの連合体には、シリアと敵対するイラクが支援した。
どうしよもなく、こんがらがったレバノン内戦。1989年、サウジアラビアの仲介によるターイフ合意を国会議員団が採択。シリアはサウジアラビアの説得で賛成。多くの民兵組織も賛成にまわった。ヒズボラは消極的賛成に、親イスラエルの南レバノン軍は黙殺、アウン派のみが強硬に反対した。
当時、イラクは湾岸戦争に突入しておりアウン派を支援することはできず、アウンはレバノン国軍を含む民兵組織の解体を目論んでいたため、連合を組んでいたレバノン国軍とはすでに対立していた。
シリアはアウン派を軍事的に壊滅させ、挙国一致内閣を樹立。段階的に民兵組織を武装解除させていった。こうして、レバノン内戦は終結することになり、シリア軍の駐留による平和「パクス・シリアナ」が訪れることになった。
なお、シリア軍が完全撤退したのは2005年である。パクス・シリアナが終了した後、レバノンがどうなっていくのかは予断を許さないのが現実であると考えてよい。
長っ…。レバノン内戦は、あまりにも複雑である。なので、こんなに長い記事になってしまった。これでも、相当に端折っているのだ。レバノンが落ち着いた国でないことは、この国を旅すればすぐに実感することができる。
ベイルート市内を歩いても、郊外にセルビスで出かけても、驚くほどにチェック・ポイントが多いのだ。なお、レバノン国内には、未だにレバノン政府の影響力の及ばない地域が残っている。
市内をブラブラした後、宿に戻って一休み。レバノンでの昼食は、いつものようにセルピルさんからいただいたもの。それも今日で最後。こうして、思い出は“形”から“記憶”へと移り変わっていく。
夕食は自炊。ベイルート最後の夜、のんびりとした時間が流れている。明日は、またまたフライトでの移動。何事もなければいいのだけれど…。 |