


アタテュルク廟





アナトリア文明博物館



アンカラの街

ディララさんと

ディララさんと歩いた
おしゃれストリート |
この日最初にすることは、日本大使館にレターを取りに行くこと。というわけで、またまたセナさんが出勤する車に乗せてもらった。2日続けてありがとうございます。
無事にレターを受け取り、サウジアラビア大使館へ向かう。レターを持っているということは大きい要素のようで、今回は大使館内部に入ることができた。
しかし、対応する係官はゼロ…。やる気の無さが見事に現れている。待合室で待つこと30分強、オッちゃんにレターとパスポートを渡すことに成功した。
で、その10分後くらいに別の係官がやって来て、何しにサウジアラビアに行くんだと聞いてきた。ツーリストだと言っても通じない…。カンパニーを連呼する係官。かなり高圧的だったけれど、まあ、そんな態度にも慣れてきているオリエント伯爵。相手を刺激しない程度に冷静に対応させていただいた。
結局、仕事で訪問するのではないことと、現在トルコに住んでいないことが分かった係官は、「日本で査証を取ってこい」と言い放って交渉は終了したのだった(笑)。まあ、想定の範囲内だったけれどね!
これで、パキスタン、アフガニスタンに続いて、イラク、サウジアラビア、シリア、イエメンへの訪問が不可能になった。内戦が続いているので訪問を諦めたシリアを除けば、どの国も入国へのアプローチはしたことになる。
努力してみて行けなかったのならば、自分に言い訳も立つというもの。ただし、この姿勢も、アフリカ・ステージになると怪しくなってくるかもしれない。まあ、行ってみなければ分からないね!!!
気を取り直して、アンカラの街歩きをすることにした。最初に向かったのはアタテュルク廟。現在のトルコをつくった男の墓である。正式な名前を、ムスタファ・ケマル・アタテュルクという。
アタテュルクは、オスマン帝国領だったテッサロニキ(現ギリシャ)で生まれた。オスマン帝国陸軍に入り、リビアを舞台にした伊土戦争、バルカン半島を舞台にした第1次・第2次バルカン戦争に関わる。第一次世界大戦では、連合国をガリポリの戦いで粉砕し、アナトリア東部やシリアでの戦闘にも関わった。
第一次世界大戦でオスマン帝国は敗北。1918年10月、ムドロス休戦協定が結ばれる。直ちに、連合国側はオスマン帝国の分割に動き出す。イギリスは、イラク北部、南東アナトリア、西アナトリア、黒海沿岸都市を勢力下に置く。同様に、フランスがキリキア、イタリアが南西アナトリアを勢力下に置いた。
1919年5月15日、西アナトリアのイズミルに、イギリスの支援を受けたギリシャが侵攻する。国土防衛のために第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてアナトリア東部のエルズルムに派遣されることになったアタテュルクは、5月19日、黒海沿岸のサムスンに上陸。上陸後、領土分割反対を掲げ、「アナトリア・ルメリア権利擁護委員会」を結成する。
イスタンブルのオスマン帝国政府は、当初は権利擁護委員会との妥協を試みる。しかし、1920年3月16日の連合国によってイスタンブルは占領される。その後も続く連合国の圧力に屈したイスタンブル政府は、権利擁護委員会が多数を占めていた帝国議会を解散。
アナトリアに留まっていしたアタテュルクは、4月23日、イスタンブルから脱出した議員を交えて、アンカラで大国民議会を開催。アンカラ政府を立ち上げた。
1920年8月10日、イスタンブル政府は、連合国との間にセーヴル条約を締結する。この条約は、アナトリア・ルメリアの地を、イギリス・フランス・イタリア・ギリシャで分割し、東部アナトリアでのアルメニアとクルドの独立にもふれられていた。なお、オスマン帝国領はアンカラ周辺と黒海沿岸に限定され、アナトリア北部の3分の2に留まるものであった。
アンカラ政府軍は、アナトリア東部戦線において、アルメニア民主共和国軍を圧迫。12月はソビエト軍が同国の首都であるエレバンに侵攻してアルメニア民主共和国は崩壊した。
アナトリア南部戦線では、フランス軍と対峙していた。1920年5月から翌年の10月まで戦闘は続いた。アンカラ政府軍は勝利を収めることはできなかったものの、フランスとの間にアンカラ条約を結び、フランスはシリア領へと撤兵することになった。
アナトリア西部戦線では、ギリシャ軍との戦いとなった。この戦いで指揮官として圧倒的な力量を発揮したのがフェヴズィ・チャクマクである。1921年3月、イニョニュの戦いでギリシャ軍を撃退。同年9月、サカリヤの戦いでギリシャ軍をイズミルへと敗走させる。翌年8〜9月、ドゥムルプナルの戦いでイズミルを回復した。
こうした現状を無視できなくなった連合国は、新たな条約を結ぶことをイスタンブルとアンカラの両政府に通達する。アタテュルクは、二重政府の解消の必要性を感じており、1922年11月1日、カリフとスルタンを分離しスルタン制を廃止した。ここに、イスタンブル政府は消滅することとなった。
1923年7月24日、連合国との間にローザンヌ条約を締結。ここに、アナトリア・ルメリアの分割は回避され、現在のトルコの国境が決定した。しかし、皮肉なことにアルメニアとクルドの問題が棚上げされたこともまた事実である。
アタチュルクは、共和制を宣言し、トルコ共和国を樹立。自身は初代大統領に就く。1924年にはカリフ制も廃止、脱イスラム国家の流れを推し進めていく。
イスラム教を国教とする条文の削除、一夫多妻制の廃止、トルコ語のアラビア文字からラテン文字への転換、ヒジュラ暦を廃してグレゴリオ暦を導入、トルコ帽の廃止、姓をもつように義務付けられた。
トルコ共和国という国を創りあげた英雄アタテュルクは、1938年11月10日、肝硬変によって永遠の眠りについた。一党独裁体制を樹立したアタテュルクは独裁者であることに変わりはない。しかし、その独裁によって国が救われ、国が創られたことは事実である。真の英雄には、独裁も許されるのかもしれない。
そんな英雄の眠るアタテュルク廟。訪れる人が多いのは、あたりまえのことなのだろう。そして、訪れる人の大部分がトルコ人であるということが、ここが普通の観光地ではないことを示している。
アタテュルク廟を後にして、旧市街であるウルスの街へと向かう。ホントにアンカラという街は坂が多い…(笑)。坂を登ったり下ったりしながらウルスの街に到着。旧市街らしく、とってもゴチャゴチャした場所だったなあ〜。だから、嫌いではない場所だった!!!
ここでは、アナトリア文明博物館を見学。この旅では、ミュージアム嫌いになっているオリエント伯爵。ここの博物館は、悪くはないと思う。歯切れの悪い言い方になっているのは、一部施設がクローズしていたから。全部見たかったなあ〜。
続いて、Yusuさん&Hareさんとの待ち合わせ場所に向かう。アンカラで初カウチサーフィンを体験中のYusuさん&Hareさん。元気でやっているだろうか?
無事に再会することができた。携帯も持たずに知らない外国の街で再会できるなんて、メール(メッセ)という機能だけでも上手に活用すればできることはたくさんあることを実感!
Yusuさん&Hareさんのホストも、素晴らしい方だったようで一安心。ここでは、トルコ人のディララさんとも待ち合わせ。ディララさんは、カウチサーフィンでアプライしたとき、ホストはできないけれど会うだけ会いたいとの連絡がきた方。
4人でカフェで話をして、その後、ディララさんの案内でアンカラの街をブラブラする。やっぱり、坂道が多いなあ…(笑)。夕方にディララさんとはお別れする。短い時間だったけれど、出会えてよかったな!
Yusuさん&Hareさんの今後の日程とルートを聞くと、どうやらアンカラでお別れのようである。でも、この日は、すでにゆっくりする時間がない。というわけで、明日の朝に、もう一度会うことにした3人。
セナさん宅に戻る。夕食は、朝にセナさんが「食べていいよ」と言ってくれた昨日のパスタ。買ってきたビールを飲み終わり、買ってきた安ワインを飲もうかなあ〜と思っていたらセナさんが帰ってきた。
今日は、セナさんはヨガのレッスンがある日。ヨガのレッスンのためだろうか、昨日は疲れ気味だったのに、スッキリとした顔をしている。理由はさておき、スッキリとしていることはイイことだ!!!
この日の夜は、今までで一番話しをした。やっぱり、セナさん、とっても魅力的な女性である。まあ、理屈向きに美しいしね!もっと、もっと、話をしたい女性だった。この日が最後の夜なんてもったいない。
でも、どんな出会いにも別れはつきもの。それが旅ならば、スパンはグッと短くなる。短い時間で、どれだけ濃い時間を創れるかが勝負になるのだ。そんな意味では、最後の夜に濃い時間を過ごせたことに感謝しなくちゃいけないね!!! |