世界旅HOME   南ヨーロッパ   コソボ   2013年3月  
 
ティラナ→プリズレン プリズレン プリズレン→スコピエ
 

 



街の東部には
城塞が残る



左に教会 右にモスク

隣接しているけれど
共存しているとは言えない

この街が
セルビア王国でも
オスマン帝国でも
重要な地だったことは
証明してくれる



街には多くのモスク



右下に見えるのが
プリズレン同盟の建物



一方で
破壊されたままの教会



そして
廃墟のままの住宅



この街が美しいことは
間違いない

そして
コソボという場所を
感じるためにも
最適な街だと思う
 今日のミッションは、明日の移動の情報収集である。セットになっている朝食を食べて、街へと繰り出すことにした。情報収集だけではもったいないので、街歩きもすることに。まあ、相変わらず、観光情報なんてないんだけどね!
 プリズレンという街は、アルバニア人の国家をつくろうという運動した「プリズレン同盟」の本拠地。こうした意味からも、アルバニア人にとっては特別な地ということができる。でも、アルバニア共和国の領地ではないのだ。このあたりに、バルカン半島の複雑な事情が見えてくる。

 プリズレンに古くから住んでいたのは、イリュリア人とされる。ちなみに、イリュリア人はアルバニア人の源とされている。その後、東ローマ帝国の支配が長く続くことになる。
 1208年、セルビア王国の支配下となる。この時代、多くのセルビア正教会の教会が建てられ、王国の宮廷もつくられた。この時期、プリズレンがセルビア王国の中心地の1つであったことは間違いない。
 しかし、1371年のマリツァの戦い、1389年のコソボの戦いで、セルビア王国はオスマン帝国に敗北。この後、徐々にオスマン帝国の支配下に置かれるようになる。こうして、セルビア人が北に去って行き、アルバニア人移民が南からやって来ることとなった。そして、オスマン帝国の衰退とともに、先ほど書いたプリズレン同盟の本拠地となっていくのである。

 プリズレン同盟が結成されたのが1878年。その約30年後の1912年に発生したのが第1次バルカン戦争である。この戦争でアルバニアはオスマン帝国から独立を達成するのだけど、それは周辺国にとっては好ましい事態ではなかった。
 事実、バルカン戦争の最中、プリズレンではセルビア軍によるアルバニア人虐殺が行われた。そう周辺国にとっては、アルバニア人の国家ができるなとど言うのは迷惑以外の何物でもなかったのだ。
 結局、アルバニアは独立を果たしたものの、第2次バルカン戦争によって、アルバニア人が多く住んでいた地域にも関わらず、ギリシャ、セルビア、モンテネグロの各国に領有された地域があった。特にセルビアは、歴史的経緯もあり、コソボ地域をごっそりと領有することになった。

 こうして、アルバニア人国家をつくろうとした運動の本拠地であるプリズレンは、アルバニア共和国の領土ではないのである。しかし、現在、セルビアの領土でもない。
 旧ユーゴスラビアを建国したヨシップ・ブロズ・チトー。彼は一時代の英雄であろう。しかし、クロアチア人の父とスロベニア人の母をもったからだろうか、アルバニア人についての政策は、お世辞にも褒められたものではなかった。
 旧ユーゴスラビアのセルビア地域には、コソボ・メトヒヤ自治州が設置された。しかし、自治州北部にはセルビア人が多く住む地域が含まれ、自治州周辺のモンテネグロ、セルビア、マケドニアにはアルバニア人が多く住む地域が残された。この“線引き”は大失敗であったことは間違いない。まるで、彼が嫌ったスターリンのような失策である。
 そこは天才的政治家だったチトーである。失策に固執することなく、徐々にコソボの自治権を強化し、アルバニア文化にも一定の理解を示していった。しかし、1980年、チトーは死去する。

 1981年には最初の暴動が発生。この時の要求は、コソボを他の構成国と同等の地位まで引き上げよというものだった。しかし、ここでアルバニア人の構成国がつくられると、モンテネグロ、セルビア、マケドニアに住んでいるアルバニア人が黙っていないことは容易に想像できた。特に、マケドニアは、領有地の半分近くがアルバニア人地域なのだ。ちなみに、残りの半分だってブルガリア人地域なんだけれど…。
 こうした対立をより深刻にしたのが、コソボ地区の経済の悪化である。1979年の時点で、コソボ地区の1人当たりのGDPは795USD、ユーゴスラビア全土では2635USD、最も豊かなスロベニアでは5315USDという開きがあった。
 1990年までに暴動は日常化し、多数派であるアルバニア人は、セルビア人はもちろん、その文化を含めて、徹底的に葬り去ろうとする。それに対して、セルビア人勢力がついに動く。スロボダン・ミロシェヴィッチがトップに立ったセルビアは、コソボの自治権を剥奪。アルバニア人はもちろん、その文化を含めて、徹底的に葬り去ろうとする。いわゆる、仕返しというやつである。
 こうしたセルビア人勢力の動きに対して、アルバニア人勢力は平和的反抗を選択する。しかし、それにも限界があった。セルビア人勢力の抑圧は止むことを知らず、1996年、ついにコソボ各地で同時多発的にセルビア人勢力へと攻撃が始まる。

 この時、攻撃の主体となったのが「コソボ解放軍」であったとされる。コソボ解放軍は、世界中から認められた“テロ組織”であった。しかし、多くの大国が支援したことも事実である。矛盾だらけなのがコソボ紛争の特徴である。
 1997年には、アルバニア暴動によって大量の武器がコソボ解放軍に行き渡ることになる。セルビア軍とコソボ解放軍が全面衝突するのに時間はかからず、両軍が虐殺を繰り返す泥沼の戦いが続く。
 1999年、ランブイエ和平交渉が始まる。しかし、3月に発表された合意案は、アルバニア人側に有利であることは明らかであり、アルバニア・英国・USA代表が署名したものの、セルビア・ロシア代表は署名しなかった。そして、3月末には、NATOによる空爆が始まる。もう、イジメの様相を呈している…。
 結局、NATOの空爆によって、紛争は終結へと向かう。同年6月、多くの難民、多くの虐殺、多くの矛盾、多くの破壊、そして多くの死者を出したコソボ紛争は終結した。

 こうした難しいことはさて置いても、街の東部にある城塞跡に登れば書いたようなことを実感することができる。モスクと教会と教会跡と廃住居と城塞跡とアルバニア国旗とコソボ国旗を見ることができる。実は、宿のテラスからも一望できる。
 バスTに行って、バスの時間を確認。5時半と9時の2本だそうだ。乗り遅れたら、乗り継ぎで行けばイイ!宿に戻って、日記を書く。調べものもしたので結構時間がかかったなあ〜。

 精神的な疲れは最高潮に達しているようだ。宿のレセプションのオニイちゃんが「夜はフリービールだぜ」と言っていたのに、御辞退申し上げて部屋で1人で飲んでいた。やばい、やばい…。
 そういえば、今日は旅に出てから450日目。いつもの記念日らしく、なんのイベントもない。ああ、フリービールの誘いを断っていなかったら、なにかイベントがあったのかも…。いや、疲れすぎている…。
 24時前にはおやすみタイム。いちおう、目覚ましをセットして眠りにつくこととする。今回のヨーロッパ・ステージも、残すところ、あと1ヶ国だ。
 

 
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