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ヘルツェゴヴィナ
  2013年2月  
 
サラエヴォ サラエヴォ サラエヴォ
 

 

ラテン橋

この橋で
サラエヴォ事件が発生



イナト・クチャ

オーストリア=
ハンガリー帝国の支配時代
土地の提供を拒否

最終的には従ったものの
家を解体して
材を移動して
川の対岸に再建した
 ここサラエヴォの街では、ユックリすることに決めているオリエント伯爵。そう、間違いなく、最近、疲れている。日本語で最後に会話したのは2月13日(スロベニア)、日本人と最後に宿で会ったのは2月5日(イタリア)、日本語がある程度話せる人と飲んだのは1月7日(ドイツ)。日本人と最後に宴をしたのは12月11日(ハンガリー)。なんと、2ヶ月以上、日本人との宴から遠ざかっている。これで、疲れが出ない方がおかしいというものだ。…と再々掲載。

 この日は、街の中をブラブラしてみる。2時間もあれば十分。もう1つあるバスTまで行ってみようと思ったけれど、かなり遠いので止めることにする。
 この日、6名の団体がやってきたので、オリエント伯爵は部屋を移動することになった。ノリが良くて、楽しい日本人は、やってくる気配がないようだ(笑)。よって、“更に素敵な娘だったら”などというのは、完全な夢物語にすぎないようだ…(笑)。

 ここサラエヴォ。歴史的には、いろいろな側面をもった、興味深い街なのである。そこで、そんなことを調べてみる。今日は、その第2弾。タイトルは、「第一次世界大戦の発端の街」。

 1913年のロンドン条約の締結によって、第1次バルカン戦争は終結した。この結果、オスマン帝国がバルカン半島から撤退し、オーストリア・ハンガリー帝国とロシア帝国の影響力が強く残ることとなったことは昨日の日記に書いたとおりである。
 オーストリア・ハンガリー帝国は、アドリア海をめざして南下政策をとっていたとされる。また、「汎ゲルマン主義」と呼ばれる、ゲルマン民族の勢力拡大を図る政治思想も存在していた。同様に、ロシア帝国もまた海を求めて南下政策をとっていたとされ、「汎スラブ主義」と呼ばれる政治思想も存在していた。

 当時、ボスニアの地は、オーストリア・ハンガリー帝国領であった。露土戦争の修正条約である1878年のベルリン条約で影響下に置き、1908年には併合(ヘルツェゴヴィナも含む)した。
 この併合は、同じくアドリア海をめざし、「大セルビア主義」と呼ばれる政治思想が存在していたセルビア王国の猛烈な反発を招いた。結果的には併合に成功したものの、オーストリア・ハンガリー帝国は、ロシア帝国との協調関係の崩壊し、ドイツ帝国に外交のイニシアティブを握られ、セルビア王国ならびにボスニア・ヘルツェゴヴィナ地域で反オーストリア勢力が活溌化し、国際的地位は低下することとなった。

 1914年、オーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナンド大公は、軍事演習の視察のためにサラエヴォを訪れることになる。この時、「ツルナ・ルカ(黒手組)」という秘密組織に所属していたガヴリロ・プリンツィプによって暗殺される。なお、暗殺の正確な経緯については諸説あり、現在もはっきりしていない点が多い。
 この「サラエヴォ事件」を受けて、約1ヶ月後、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつける。この最後通牒は、セルビア王国側にとって、受け入れることが事実上不可能なものであったとされる。
 セルビア王国側は、2つの項目の一部保留という条件で受け入れることを決める。しかし、無条件・全条項の受け入れを条件としていたオーストリア・ハンガリー帝国は、7月28日、セルビア王国に宣戦を布告した。

 この少し前…1882年、ドイツ帝国宰相ビスマルクの下、ドイツ帝国はオーストリア・ハンガリー帝国とイタリア王国との間で「三国同盟」を締結していた。また、ロシア帝国との間には、1887年に「独露再保障条約」を結んでいた。こうして、フランス共和国は完全に孤立していた。
 しかし、ビスマルクが失脚し、ドイツ帝国とロシア帝国の間に溝ができる。すると、1894年、「露仏同盟」が結ばれる。こうして、ドイツ帝国は東西に敵をもつこととなる。
 この二面作戦に勝利するために、ドイツ帝国はシュリーフェン・プランを立案。その作戦は、中立国のベルギーを侵略してフランス共和国に対して早期勝利をあげ、反転してロシア帝国と戦うというものであった。
 しかし、中立国のベルギーを侵略するという無謀なものであり、そのような事態になれば、イギリス帝国がドイツ帝国と戦端を開くことは事前に分かっていた。また、1904年には「英仏協商」を、1907年には「英露協商」を締結している。

 実際、7月28日以降の、独・露・仏・英の動きは、以下のようなものである。瞬く間に、戦争の火が広がっていったことが分かる。
  7月31日 ロシア帝国が総動員令を布告
  8月1日 ドイツ帝国が総動員令を布告
       ドイツ帝国が中立国のベルギーに無害通行権を要求
       フランス共和国が総動員令を布告
  8月2日 ドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告
       イタリア王国は中立を表明
    3日 ドイツ帝国がフランス共和国に宣戦布告
    4日 ドイツ帝国がベルギーに侵攻
       イギリス帝国がドイツ帝国に宣戦布告
 こうして、ヨーロッパの大国であった、五カ国が戦争に加わることとなったのである。この後、植民地と関係したアフリカ・オセアニア・アジアでの戦闘、オスマン帝国参戦による中東・カフカスでの戦闘と世界中に戦場は広がった。これが、第一次世界大戦が勃発した“大まかな”理由である。
 

 
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