
Palmers Lodge Zagreb

ディナル・アルプス山脈
アドリア海側は青空

アドリア海 綺麗な青だ

シベニクの海 午後

シベニクの海 夕刻

シベニクの海 落陽 |
今日も順調に早起きに成功。でも、シベニク行きのバスは、そんなに早朝ではないので、シベニクの宿の最終確認をしたり、日記を書いたり、出費の整理をして過ごす。 バルカン半島に入って以来、晴天にお目にかかっていない。今日も、空は重たい乳白色。雪こそ降っていないけれど、路面が濡れているところを見ると、明け方には雪か雨が降ったのだろう。 バタバタと宿を出発。レセプションのオネエちゃんが、とっても綺麗だったので写真を撮ったんだけど、ブレブレになっちゃった(笑)。フラッシュが壊れたカメラというのも面倒くさいもんだ…でも、新しいの買うなんて、もったいないしなあ〜。 時間がないのに、こんなことしていたので、バスTにはギリギリに到着した。急いでチケットを買って、急いでバス乗り場に向かう。またまた、ほぼノータイムでバスは出発!!!
今日は、約5時間のバスの旅。ここで、衝撃の事実に気がつく。心身ともに、ヤワになっている…。たった5時間なのに、苦痛に感じている。どうやら、短い移動を重ねたヨーロッパ・ステージの影響で、アジア・ステージの過酷な移動を忘れてしまっているらしい。 そんな意味では、これからのバルカン半島の旅は、ヨーロッパからアジア&アフリカというステージに移行するのに丁度いいかもしれない。だんだんヨーロッパ色が薄れていくことになる。それは、安価だけれど、困難な旅が再び始まることを意味しているのだけれど…。
相変わらずの乳白色の空。ところが、ディナル・アルプス山脈を越えてアドリア海沿岸部に抜けた瞬間、青空がスカッと広がったのである。これほどまでに天候が激変するとは驚きである。 そして、空に負けずに青く輝くアドリア海が見えた!綺麗だ〜。なんて美しい青なんだろう!!!天気もイイし、最高の気分である。バスは途中からハイウェイをおりて、住宅地の中をクネクネと進んでいく。 アドリア海周辺の家々は、今までの場所とは異なる風景をつくりだしている。オレンジ色の屋根とピンクがかった白い壁が特徴的であった。ときおり、廃墟となっている家を見かける。個人的理由なのか、クロアチア紛争によるものなのかは分からなかった。
美しいこの地域も、クロアチア紛争の激戦地の1つだったようである。クロアチアがユーゴスラビアからの独立を宣言したのは1991年。同時期に、セルビア人が多く住んでいたクライナ地域が、クライナ・セルビア人共和国としてクロアチアから独立を宣言する。 この国は、国際的な承認を受けることはなかったものの、1995年まで事実上の独立国となっていた。訪れたプリドヴィツェ湖もクライナに含まれるし、シベニクのすぐ近くもまたクライナに含まれる。 1992年には、クライナ地域に加えて、同様にセルビア人が多く住んでいたスラヴォニア地域もまた、クライナ・セルビア人共和国に組み込まれる。この時期、シベニクも攻撃を受けているけれど、クロアチア側が防衛に成功している。
シベニクの防衛には成功したものの、当時のクロアチア軍は脆弱で、ユーゴスラビア人民軍が公然と支援するクライナ・セルビア人共和国に対してどうすることもできなかった。 現状維持のまま、クロアチアとクライナ・セルビア人共和国は、停戦に合意する。しかし、越境しての戦闘がないというだけで、民族浄化などの行動は続いていたようである。 停戦後、クロアチアは軍の強化を強力に推し進める。それに対して、クライナ・セルビア人共和国では、経済が麻痺するとともに、政府には腐敗が蔓延し、軍隊は派閥をもち弱体化していく一方であった。
1995年5月、クロアチアは「閃光作戦」と呼ばれる軍事行動によって、西スラヴォニア地域を奪取。同年8月、「嵐作戦」と呼ばれる軍事行動を開始し、クライナ地域の支配権を得ることに成功した。この際、クロアチア側による、大規模な虐殺や民族浄化が行われたとされている。 こうして、現在のクロアチア領内に残るセルビア人勢力は、東スラヴォニア、バラニャ、西スレムのみとなった。これらの地域は、クロアチア東部に位置し、セルビア本国とも国境を接する地であった。そのため、クロアチア軍としては、軍事行動を起こしづらい場所であった。 1996年、この地は「国際連合 東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム暫定統治機構」が管理することになる。その後、1998年に、平和裏のうちに、クロアチアに支配権が移行されることとなった。
そんな、暗い歴史を忘れさせるほど、この日のアドリア海の夕暮れは美しかった。 |