
Acheiropoietos


Hagia Sophia

Rotunda


Hagios Demetrios

Holy Apostles |
昨夜もまた、完全に“一人宴”の様相を呈してしまった…。ただし、きちんとシャワーも浴びたし、飲酒後に片付けもした。堕落していくとキリがない性格なもんで…。 朝もスッキリと目覚めた。で、街に繰り出すことにする。なんと、テッサロニキの街は、オリエント伯爵基準の世界遺産がある街なのだ。あんまりメジャーじゃないんだけれど、観光地ってことかな?
訪れた教会は全部で5つ。で、観光地としての「テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群」の評価は、「★☆☆☆☆」である…。う〜ん、別段、どうってことはないなぁ…。 キリスト教の世界では、とっても偉大な教会なのだろう。しかし、その世界に精通していないオリエント伯爵としては、とりたてて素晴らしさを感じることはなかった。4番目に訪れた教会なんかでは、行列をなしてガラスケースに入れられた「何か」に口づけをしながら祈りを捧げていたけれど…。なんのことだか…。
世界史の知識に乏しい(世界史を履修していない:昔は必修ではなかったのだ)オリエント伯爵は、ギリシャに入国してから知ったのだけれど、ギリシャという国は比較的新しい国なのである。 そもそも、「初期キリスト教の建築物」ということは古代ローマ帝国の建築物ということであり、「ビザンティン様式の建築物」ということは東ローマ帝国の建築物ということになる。そこに、ギリシャという「国」は登場しない。
ギリシャが有史時代に入るのは、なんとBC18世紀ごろというから驚きである。クレタ島で「線文字A」と呼ばれる文字の使用が始まったのである。しかし、この文字は解読が進んではいない。 その後、BC15世紀になるとミケーネで「線文字B」と呼ばれる文字が使用されるようになる。こちらの文字は解読されているようだ。オリエント伯爵が訪れた「ミケーネとティリンスの古代遺跡群」はこの頃の遺跡である。 このあたりの年代は「有史時代」というには、少々無理があるかもしれない…。ちなみに、これらの文明は滅び、その後のギリシャの歴史はよく分かっていない。
BC700年頃になると、有名な「ポリス」が生まれる。この時期に、ギリシャ文字が発明されている。代表的なポリスとしては、アテナイやスパルタが知られている。また、ゼウスが祀られたオリンピアでは古代オリンピックが開かれ、アポロンが祀られたデルフィでは神託が行われ、他のポリスからも「聖地」として崇められるようになった。オリエント伯爵が訪れた「アテネのアクロポリス」、「デルフィの古代遺跡」、「アスクレピオスの聖地エピダウロス」、「オリンピアの考古遺跡」はこの頃の遺跡である。 ポリスは「ギリシャ」として統一されることはなかったものの、彼らのアイデンティティは統一されていたと考えられている。彼らの活動範囲は地中海沿岸に広がり、ソクラテスやプラトンやアリストテレスが活躍した。そう、ギリシャの黄金期である。 統一されることはなかったものの、外敵に対しては同盟を結んで対抗し、強国だったペルシアを破ったのもこの頃である。しかし、外敵がいなくなると内部抗争を繰り広げたことも確かであり、特にアテナイとスパルタの覇権争いは泥仕合といってもいいであろう。
古代ギリシャの有力なポリスは、現在のギリシャ南西部に集中していた。よって、当時は片田舎であっただろうテッサロニキ付近。そこに、マケドニア王国という国が存在した。 BC338年、マケドニア王国のピリッポス2世はギリシャ連合軍を破り、マケドニアがギリシャの盟主となる。ピリッポス2世が暗殺されると、後を継いだ息子が有名なアレクサンドロス大王である。オリエント伯爵が訪れる予定の、「アイガイ(現在名ヴェルギナ)の古代遺跡」はこの頃の遺跡である。 しかし、BC323年、アレクサンドロス大王が死去。ディアドコイ戦争が勃発する。結局、マケドニア王国は、セレウコス朝・プトレマイオス朝・アンティゴノス朝に分割されることになった。この中で、アンティゴノス朝が地盤としたのがマケドニアの地である。 同じ頃、ギリシャ北西部にはアエトリア同盟が、ペロポネソス半島北部にはアカイア同盟が形成された。
この混乱に終止符を打ったのが、古代ローマ帝国である。4回に及ぶマケドニア戦争の結果、マケドニア王国は滅亡し、アエトリア同盟もアカイア同盟も役割を終えることとなった。 BC146年、テッサロニキを州都とするマケドニア属州を設置。その後、BC31年にはアカイア属州が独立した。BC27年にはクレタ島が現リビアのキレナイカ属州の一部となる。こうして、ギリシャの地は古代ローマ帝国に組み込まれ、「パクス・ロマーナ」と呼ばれるローマによる平和の恩恵を受け、ギリシャは復興していく。特に、アテナイは商業の中心地として栄えるようになった。 強大な国力を誇った古代ローマ帝国は、幾度の危機があったものの、それを乗り越えながら広大な領土を維持していく。しかし、広大な領土を維持するには1人の皇帝では無理が生じるようになってくる。この問題を解決するため、AC293年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、テトラルキアと呼ばれる4人の皇帝が統治する手法をとった。 ギリシャの地は、東方副帝が統治することとなり、シルミウム(現スレムスカ・ミトロビッツァ:セルビア領)が首都とされた。テトラルキアは分割統治であり、4人の皇帝は同等の地位を与えられていたようである。
しかし、ディオクレティアヌスの引退後、皇帝の相続を巡って内乱が勃発。324年、コンスタンティヌス1世が勝利者となり、古代ローマ帝国は再び1人の皇帝が統治する形態へと変わった。しかし、やはり広大な領土を維持していくためには1人の皇帝が統治するのは難しく、古代ローマ帝国は共同統治という形を取ることになる。なお、330年、古代ローマ帝国の首都はビュザンティオン(現イスタンブル:トルコ領)に遷都された。 395年、テオドシウス1世の死により(死去の際は皇帝は彼だけであった)、ビュザンティオンを首都とする東ローマ帝国と、ミラノ(後にラヴェンナ)を首都とする西ローマ帝国とに分割される。なお、ギリシャの地は、東ローマ帝国が統治することとなった。分割統治は今までも行われていたことであり、歴史的にみて大事件と呼べるものではない。ただ、この後、ごく短期間のものを除けば、1人の皇帝が古代ローマ帝国を統治することはなくなったことは事実である。 476年に西ローマ帝国は滅亡するものの、東ローマ帝国はゲルマン人の侵攻を食い止めることに成功する。533〜554年にかけて西ローマ帝国の領土を奪還し、再び地中海沿岸を統治下に置くことに成功する。しかし、サーサーン朝ペルシアとの争いが再燃、異民族の侵入、イスラム勢力やテュルク系勢力との争いによって国土は縮小していき、8世紀には、アナトリア半島・バルカン半島沿岸部・イタリア南部を領する国家となった。オリエント伯爵が訪れた「テッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群」はこの頃の建築物である。 また、8世紀頃には、公用語がラテン語からギリシャ語へと変わり、宗教的にも西のローマ教皇と対立するようになる。こうしたことから、東ローマ帝国は、ビザンティン帝国やギリシャ帝国とも呼ばれる。
これで、ギリシャに古代ローマ帝国や東ローマ帝国の建築物があることが納得できた。う〜ん、長い歴史だなあ…。 で、この日の夜は昨夜の買い物の残りで、またまた“1人宴”と洒落こんだ。あんなにあったアルコール飲料は、あっという間に底を突くことになった…。まあ、我慢しないで普通に飲んでれば、あっという間になくなることは分かっていたけれど…(笑)!!! |