世界旅HOME   南アジア   バングラディシュ   2012年7月  
 
ダッカ ダッカ ダッカ→[機内]→クンミン
→チョンドゥ
 

 

HOTEL YEAMENI
INTERNATIONAL



恒例のエア・メール

バングラデシュは
緑と水の国だと思った



最後の最後まで
楽しかった

それにしても
この国旗
売り物だったような

しかも
他の店の

こんなところも
バングラデシュらしい
 今日は、ゆっくりと起きる。なぜなら、おそらく今夜は満足に眠られないと思われるからである。本日のフライトの離陸時間は26:00…。到着時間は翌5:50。しかし、時差があるので、実質は1時間50分しか乗っていない。こんな短時間の搭乗にもかかわらず、機内サービスのところに「ディナー」と書いてあった。ということは、機内でも、あまり眠る時間がないということになる…。
 チェック・アウトの時間までに、エア・メールをかきあげる。たった1週間の滞在だったけれど、思い出深い国になった。ちなみに、この宿は中央郵便局のすぐそばなので、郵便局探しをする必要はない。チェック・アウト後に出しに行くことにしょう。
 その後は、のんびりと荷物整理。今日がフライトということは、バック・パックに入れるものが変わるということ。バングラデシュといえども、飛行機の荷物検査は厳しいのだ!…きっと…。

 チェック・アウトした後、ロビーのような場所でボケ〜としていると、何人かの従業員がやってきて「チップ、チップ」と言ってくる。オリエント伯爵が思うに、この宿はチップを払うほどの高級ホテルではない。というか、安宿の部類でしょう…。困った習慣が、ついてきてるんだな〜。誰がつけたんだか…。
 面倒くさくなったので、宿を出て、街をブラブラすることにする。その前に、中央郵便局に行って、エア・メールを出す。窓口のオバチャン、とても親切だった。
 その後、昼飯を食べる。またまた、ビリヤーニ。正真正銘、これが食べ納めである。バングラデシュのビリヤーニは、スパイスが控えめで、日本人の味覚に合うと思われる。日本展開、してみませんか???

 大量に(と言っても3000円以下なんだけれど…)余りそうなバングラデシュ・タカ。空港まで行かずに、再両替できればラッキーである。ということで、ATMを使った銀行に行って、「再両替して!」と頼んでみた。「できません〜」と言われてしまった。でも、銀行ではなく両替商ならばできることを教えてくれた。
 WiFiができる店を探しがてら、両替商を探すオリエント伯爵。先に見つかったのは、両替商だった。レートを聞いて、メモしておく。思ったよりも悪くない。閉店時間も聞いておいた。
 結局、WiFiができる店は見つからなかった。この地区には、ないのだろう。両替商も1つだけしか見つからなかった。あまり、気合を入れて探さなかったからだろう。KFCで時間を潰した後、両替商でバングラデシュ・タカの再両替を行う。

 宿に戻って、ロビーで休憩。その後、最後の街歩きに出かける。バングラデシュの人たちは、本当に、フレンドリーで、スマイリーで、カインドリーである。楽しい時間を過ごした後、宿に戻って、バック・パックを持ってバスで空港に向かう。
 道路は大渋滞。今までの一番だった。そのバスの中。渋滞でバスが停まっているときに、1人のバングラデシュ人が、信じられない行動を。なんと、1度バスを降りて、オリエント伯爵のために、水を買ってきてくれたのだ。
 これには、びっくりした。心が震えた。“親切”って、こういうことを言うのかなと思った。だったら、オリエント伯爵は、今まで“親切”なことをしたことがないのではないか…。

 バングラデシュ。オリエント伯爵の中では、ミャンマーと双璧をなすほどの“素敵な国”だった。皆さんに、「ドンノバード=Thank you」。この国と出会えて良かったと、心の底から思っている。
 旅人の皆さん。バングラデシュという国が変わってしまう前に、ぜひ、訪れてみてください!!!

 ダッカの空港に着いた。ダッカの空港といえば、日本人が忘れてはいけない事件がある。「ダッカ日航機ハイジャック事件」である。
 1977年9月、フランスのパリを飛び立った日本航空472便は、経由地であるインドのムンバイを離陸直後に、武装した日本赤軍5名によってハイジャックされた。現在では考えられないけれど、当時は武装することができる乗客が飛行機に乗り込むことができたのだ。
 ハイジャック機はコルカタに向かった後進路を変え、ダッカの国際空港に強行着陸した。犯人グループの要求は、身代金として16億円(600万USドル:いずれも当時の金額)と服役囚9名の釈放と日本赤軍への合流であった。

 当時の日本政府首相:福田赳夫は、「1人の命は地球より重い」という言葉とともに犯人の要求を呑み、身代金の支払いと超法規的措置によりメンバーの釈放・合流を決定する。
 ハイジャック犯は、釈放されたメンバーと合流を果たし、人質を解放しながらクウェート・シリアを経由し、ハイジャック防止協定を結んでいなかったアルジェリアに向かう。ここで、すべての乗客乗員が解放され、事件は集結した。

 なお、この解決方法について、「日本の弱腰対応に世界の批判が集まった」とする論があるけれど、この時期では一般的な解決方法であったようである。どうして、このような無責任な論が世間に広まっているのか。そこにも、ある種の恐ろしさを感じる。
 ちなみに、ハイジャック犯に対して強行突入が一般的になるのは、同年10月に発生した「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件(モガディシュ事件)」以降のことである。このとき強行突入を成功させた西ドイツ特殊部隊GSG-9は、1972年の「ミュンヘンオリンピック事件」を教訓に創設されたものである。
 更に言えば、西ドイツ特殊部隊GSG-9の成功により、アメリカには「デルタフォース」が、日本には「SAT(当時は名称が異なる)」が創設されている。もちろん、その因果関係については、はっきりしない。そもそも、アメリカ政府が、公式にデルタフォースの存在を認めたことは1度もないのだから…。

 また、この事件はバングラデシュにも影響を与える。政府及び軍の首脳が事件への対応に追われている間隙を縫って、軍事クーデターが発生。クーデターは鎮圧されたものの、政府軍士官11名が死亡したとされる。
 事件解決後、日本政府は謝礼と謝罪の特使を送る。それに対して、バングラデシュ政府は、補償等を一切求めなかったとされる。こうしたバングラデシュ政府の対応も、現在の日本とバングラデシュの蜜月関係に無関係ではないと思われるのは考え過ぎだろうか?

*ハイジャック犯
 丸岡修   1987年に逮捕。2011年に獄中死。
 和光春生  1997年にレバノンで拘束。日本で服役中。
       この事件では立件されていない。
 佐々木規夫 現在も国際指名手配中。
       1975年に逮捕。
       クアラルンプール事件で釈放・出国。
 坂東國男  現在も国際指名手配中。
       1972年に逮捕。
       クアラルンプール事件で釈放・出国。
 西川純   1997年にボリビアで拘束。日本で服役中。
       1975年に逮捕。
       クアラルンプール事件で釈放・出国。
*釈放要求メンバー
 奥平純三   現在も国際指名手配中。
 城崎勉    1996年にネパールで拘束。アメリカで服役中。
 大道寺あや子 現在も国際指名手配中。
 浴田由紀子  1995年にルーマニアで拘束。日本で服役中。
 泉水博    1986年にフィリピンで拘束。日本で服役中。
 仁平映    現在も国際指名手配中。
 植垣康博   釈放要求を拒否。1998年に出所。
 知念功    釈放要求を拒否。消息不明。
 大村寿雄   釈放要求を拒否。消息不明。
 

 
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