世界旅HOME   南アジア   バングラディシュ   2012年7月  
 
ダッカ ダッカ ダッカ
 

 

オールド・ダッカの街並み



ふと現れるモスク

ビーフが食べられる
コーランが街に流れる

間違いなく
この国はイスラムの国だ



夕方になり雨

霞むダッカの街

もちろん
交通渋滞に変化はない
 昨日は散歩しなかったので、今日は散歩することにする。午前中とはいえ、さんさんと照りつける太陽の下、「オールド・ダッカ」と呼ばれる地区を歩いてみる。
 朝方に雨が降ったのだろう、ところどころ泥濘になっていて、歩きにくいところもある。いつものように、適当に路地に入ってみる。ここでも、交通渋滞(笑)!!!リキシャの長い列ができていた。
 正直、オリエント伯爵にとっては、それほど魅力的な地区ではない。更に、予想よりも地区が広い。更に、予想どおり陽射しが強い。それでも、45分ほど歩いてから、宿に戻ることにする。帰りは30分かからない。撤収の方が早いのは、なんでも同じなのである。

 もう一度、宿のレセプションで、この辺りでWiFiのできるところはないか聞いてみる。近くでできるとのことだったけれど、昨日のこともあるので、半信半疑で向かってみることにする。
 途中、バス同士の接触があったのだろうか、喧嘩が始まった。一般に、インド人は温厚と言われているらしい(出典は曖昧…都市伝説かな?)けれど、ベンガル人は違う。ハンパなく熱い民族である。

 日本人であるならば、2人の「ボース」というベンガル人を知っておくべきである。この2人をベースに、熱いベンガル人について少し記してみたい。
 1人目は、ラース・ビハーリー・ボース(Rash Behari Bose)。彼は、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵の娘と結婚し、日本にインド式カレーを初めて紹介した人物としても知られている。新宿中村屋は京都進々堂や山崎製パンの創業者も勤務したことのある老舗であり、クリームパン、中華まん(異説あり)を考案した店である。また、インド式カレーだけでなくボルシチを日本に紹介した店でもある。
 ラースの本業は、インドの独立運動家である。1886年にベンガル(現在はインド領となっている)に生まれ、インド国民会議(会議とあるけれど日本で言えば政党である)に参加し、独立運動に身を投じた。イギリス植民地政府に追われ、1914年に日本に亡命した。
 当時、日英同盟を締結していた日本政府は、イギリス政府からの圧力により、ラースの国外退去を命じる。しかし、頭山満や犬養毅や内田良平らの画策により、先に記した中村屋の相馬愛蔵に匿ってもらうことになる。このような経緯のため、中村屋のインド式カレーのキャッチフレーズは「恋と革命の味」である。この当時の日本、洒落ている!!!ちなみに、頭山満や内田良平は、右翼活動家と言われる人たちである。しかし、現在の右翼活動家とは異なり、まさに「国士」であったことを付け加えておく。

 その後、日本政府はイギリス政府と対立。この背景の1つには、第1次世界大戦後のパリ講和会議において、日本政府が提案した「人種的差別撤廃提案」に対して、イギリス・アメリカ・オーストラリア各政府が猛烈に反対したこともあることを記しておく。
 こうして、ラースは腹心のA.M.ナイル(A.M.Nair)とともに、日本国内でインドの独立運動を精力的に進める。1942年には英印軍の捕虜からなる「インド国民軍」が編成され、元英印軍の大尉であったモーハン・シンが統率することとなる。
 しかし、独立運動家と元英印軍人では、イギリスに対する感情が違うのは当然のことであり、内部対立が勃発する。結局、インド国民軍はラースが議長を務める「インド独立連盟」の管轄となった。こうした内部対立からくる心労が原因と思われ、ラースは体調を崩しがちとなる。1943年、インド独立連盟の総裁と、インド国民軍の指揮権を移譲する。体調の回復がかなわないまま、1945年1月21日、日本にて客死。

 2人目は、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose)。ラースから、インド独立連盟の総裁と、インド国民軍の指揮権を移譲されたのが彼である。
 1897年にベンガル(現在はインド領となっている)に生まれ、1921年からインドの独立運動に身を投じた。イギリス植民地政府に逮捕・投獄されたこともあり、1941年にドイツに亡命した。
 スバスは、北アフリカ戦線において英印軍の捕虜の中からインド旅団を結成。最終的な目的は、カフカス山脈を越えてイギリス領インドに攻めこむことだったとされている。あまりにも、遠い道のりである…。そんなスバスにとって、日本政府の対英参戦は願ってもない好機であった。
 こうして、日本政府、ラース、ナイル、スバスの想いが一致したことを受けて、フランス大西洋岸をドイツのUボートで出航したスバスは、インド洋上で日本のイ号潜水艦に乗り換えアジアへと向かった。

 1943年、インド独立連盟を基盤とする「自由インド仮政府」を樹立し、国家主席兼首相に就任。国防相も兼務した。その後、本拠地をミャンマーのヤンゴンに移し、インパール作戦にも参戦した。このインパール作戦は、作戦と呼べるレベルにはなく、無茶苦茶なものであった。そのため、6000人の参加兵力は壊滅したと言われている。その後、アウンサン将軍率いるビルマ国軍の離反の後も、インド国民軍は日本軍とともに行動し、タイで終戦を迎えることとなる。
 スバスは、日本と協力してイギリスと戦い独立を達成することが不可能となったため、ソビエトと協力してイギリスと対抗し独立を達成しようと考える。しかし、ソビエトに向かう途中の台湾で飛行機事故により事故死してしまう。スバスの遺骨は日本に運ばれ、東京都杉並区の日蓮宗蓮光寺に眠っている。なお、スバスの死亡には、現在でも疑問がもたれており、事故死を信じていない者も多くいることを付け加えておく。

 2人の「ボース」の紹介が長くなってしまった。しかも、2人ともベンガル人とはいえ、出身地は現在のインド国内。本来ならば、インドの日記に記すべきであったのだけれど、オリエント伯爵の中では、インドでの滞在はイマイチの感が…。このような、ちょっぴり難しい内容の記事を書く気持ちにならなかったのだ。実際、インドの日記は荒れている…。
 話を戻して、喧嘩は流血の事態にまで発展…プラスチック製の洗車ブラシで殴り合えば、そうなる可能性もあるわな。オリエント伯爵も警察官を呼ぶのに一役買う。そういえば、中国でも交通事故の現場に居合わせて、交通整理したことがあったけっなあ〜。
 で、肝心のWiFiのできる店は、やっぱりなかったとさ…。今日もグルシャン(Gulshan)地区へ向かうことにするのか、明日にすべきか…。中国でネット規制が強化されたことを考えると、いずれにしても、もう1回だけはPCとネットを繋げたいところである。

 結局、今日は行かないことにする。夕方になり、街に出ようとすると雨が降りだしてきた。慌てて、宿に戻る。ダッカの街にも、本格的に雨季が到来したのだろうか?
 雨が上がるのを待って、再び街に出る。晩飯はビリヤーニ。さすがに毎日食べていると飽きてきている感は否めないけれど、もうすぐ食べられなくなることも事実。
 宿に戻る途中、マンゴーを買って帰る。今日の店は、前回の店より、少しだけ安かった!オリエント伯爵の中では、果物を買うのは贅沢行為。でもね、バングラデシュのマンゴーは、インドとは比較にならないくらい美味いんだよね〜!!!これも、もうすぐ食べられなくなるもんね!
 

 
ダッカ ダッカ ダッカ
 

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