
ミャンマーの道

ドライブインの娘

エーヤワディー川

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結局、目覚まし時計が鳴る前に起きた。目覚まし時計と腕時計を比べると、目覚まし時計の遅れは目立たない。どうやら、一晩だけならば立派に仕事を果たしてくれそうである! 朝のうちに宿を出発。Miiさんも一緒に行くことになり、3人でピィまでGO。バスターミナルまで市内バスで1時間の移動。バスは、日本の中古の路線バス。そこから、ピィまで6時間近くのバスの旅。バスは、日本の中古の観光バス。6時間の旅ということで、“路線バス”から“観光バス”にグレードアップしたのはラッキー!!!
ピィまでの道は、田舎道をひたすら北上する。道路は舗装されているものの、砂塵が開いた窓から入り込む。さすがに目が痛くなってきた…。途中、ドライブインで休憩して昼飯。今回は麺類に挑戦。美味かった! 予定時間から少し遅れて、ピィのバスターミナルに到着。そこから、サイカー(タクシー的な乗り物)で、Mitsuさんが知っている宿に移動。宿のオーナーが親切な方で、次の予定地までの日程を相談する。オーナーの提案どおりに日程を決定。
宿から近くの河まで散歩。予想以上に雄大な流れである。夕景に赤く染まるエーヤワディー川は、異国にいることを十分に感じさせてくれた。
ミャンマーという国は、約60年前、多くの日本人の命が失われた地である。その最大かつ最悪の作戦名を「インパール作戦」と呼ぶ。この作戦の事実上の最高責任者は、第15軍司令官である牟田口廉也。
戦後、戦争犯罪人として裁判を受け、1966年に病死。つまり、牟田口は天寿をまっとうすることを許されたのである…。死に際し、牟田口からは自己弁護の言葉はあっても、反省の言葉はなかったという。 インパール作戦とは、日本の敵対勢力であった蒋介石に対する支援ルートを断ち切るために考案されたとされている。現在、インパールはインド北東部マニプル州の州都となっている。
作戦に参加したのは第15師団(師団長:山内正文)、第31師団(師団長:佐藤幸徳)、第33師団(師団長:柳田元三)である。なお、すべての師団長が、牟田口により更迭されている。更に、牟田口には師団長を解任する権限はなかったことを付け加えておく。この1件だけをみても、異常な事態であったことは明白である。 インパール作戦は1944年3月に開始され、4月の時点で作戦失敗は明らかとなっていた。急峻な地形と雨季の到来により補給路は寸断。当然、食糧不足を引き起し、兵士の体力低下をまねく。結果、大量の餓死者だけではなく、雨季による環境悪化と相まって、大量の病没者をも発生させることになった。一方、補給路の寸断は、武器弾薬の不足(戦う武器などなくなっていたとも言われる)にもつながる。それに加え、イギリス軍の円筒陣形および空中補給のために、日本軍は想定していたような打撃を与えることはできなかった。 この無謀な作戦の終了命令が下ったのは、1944年7月。日本陸軍に多大な損害をもたらしたことは言うまでもない。参加将兵8〜9万人。戦死者・戦病死者・餓死者の正確な人数は把握できていないものの、「白骨街道」と呼ばれた道を歩いて帰還した部隊のうち、“戦力”が残存していた部隊は皆無であったことは確かである。
オリエント伯爵は“戦争”が嫌いである。しかし、インパール作戦には、“戦争”の悲劇を超えた悲劇があり、“戦争”の愚かさを超えた愚かさがあったと思えてならない。 |