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南スーダン
  2013年7月  
 
ナイロビ→[車内]…ジュバ ナイロビ…[車内]→ジュバ ジュバ
 

 

車窓からは
とんがり帽子の家を
見ることができる

この家
理屈抜きに可愛らしい

窓ガラスが汚れているので
クリアな写真じゃないのが
残念だなあ



途中で渡った川

そうとうな水量だった



ウガンダ北部は
想像以上の悪路だった



昼食は
チャパティ&エッグ



南スーダンの大地には
広大なジャングルが
広がっている

その規模は
この旅始まって以来であった



白ナイル川



ウェルカム・ビール



またまた
チキン&チップス

店のオバちゃん
とっても
イイ感じの人だった
 ウガンダに入国したのは、23時くらいだった。朝の3時くらいに、ウガンダの首都カンパラ(Kampala)に到着。ここで、半数くらいの乗客がバスを降りていった。と、書いていると、眠れなかったようだけれど、しっかりと寝ていた…。
 さすが、メイン・ルート。眠れないほどの悪路ではない。というか、車内泊でまったく眠れないほどの悪路なんて、「モヤレ→ナイロビ」間くらいしか思い出せない…。もちろん、日本からダイレクトに来たのならば、結果は違っていたかもしれないけれど…(笑)!!!

 ここで、このあたりの国の植民地化の歴史を簡単に…。現在のケニアの地には、19世紀末からイギリス勢力が侵攻してくる。それに対して、現在のタンザニアの地には、ドイツ勢力が侵攻してくる。当時、これらの地はザンジバル・スルタン国の勢力圏にあった。
 オマーンのブーサイード朝第5代スルタンのサイイド・サイードは、自ら艦隊を組織し、アフリカ東岸を攻略。現在のソマリアからタンザニアまでの海岸部を、オマーンの勢力圏とした。1840年には、首都をマスカットからザンジバル(現タンザニア)に遷都。オマーンの最盛期をつくりあげたのだった。しかし、1856年、サイイド・サイードが死去すると後継者争いが発生。その結果、国土はオマーンとアフリカ東岸部に分割されることになった。このとき、アフリカ東岸部を支配したのが、ザンジバル・スルタン国である。
 アフリカの植民地化を述べる上で、1884年11月15日〜85年2月26日に開催された「ベルリン会議」を外すわけにはいかない。参加国は、オーストリア、ベルギー、デンマーク、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、オスマン帝国、ポルトガル、ロシア、スペイン、スウェーデン、イギリス、USAの14ヶ国だった。ベルリン会議では、7章38条からなる「ベルリン協定」が締結され、「アフリカ分割」が一気に加速することになった。

 ドイツ勢力の侵攻に抗議したザンジバル・スルタン国に対して、ドイツ帝国の宰相ビスマルクは、1886年、ザンジバルに艦隊を派遣する。ザンジバル・スルタン国はイギリスを頼るものの、ベルリン会議を終え、協調してアフリカを分割する路線を採っていた列強国に相手にされることはなかった。
 ザンジバル・スルタン国を蚊帳の外に置き、フランスも巻き込んで問題は解決された。結果、現在のケニアはイギリスの、現在のタンザニア(タンガニーカ)はドイツの、現在のコモロ諸島はフランスの勢力圏となることが決定した。ザンジバル・スルタン国の勢力圏は、ザンジバル島など非常に限定された地域に限られることになった。
 1890年、イギリスとドイツは「ヘルゴランド=ザンジバル条約」を締結する。この条約によって、ドイツは北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊(現ナミビア)とダルエスサラーム沿岸を確保、イギリスはスワヒリランド(ケニア沿岸)を確保した。その他にも、ドイツは、イギリスがザンジバル・スルタン国に対して起こす行動に干渉しないこと。
 更に、ドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)のドイツ権益の確定。ドイツ領トーゴランド(現トーゴ&ガーナ)、イギリス領ゴールドコースト植民地(現ガーナ)、ドイツ領カメルーン(現カメルーン)、イギリス領ナイジェリア(現ナイジェリア)の国境線が確定された。

 その後、「ヘルゴランド=ザンジバル条約」に基づき、イギリスはザンジバル・スルタン国の保護国化を発表。それに反発したザンジバル・スルタン国を、1896年のザンジバル戦争で一蹴。以後、イギリスがザンジバルを実効支配する。なお、ザンジバル戦争は、約40分間で終了し、世界で一番短い戦争としてギネスブックに登録されている。
 イギリスが勢力圏とする「イギリス領東アフリカ」は、現在のケニア、ウガンダに及んだ。また、ドイツが勢力圏とする「ドイツ領東アフリカ」は、現在のタンザニア(ザンジバルを除く)、ルアンダ、ブルンジ、モザンビーク(の一部)に及んだ。
 なお、第一次世界大戦でのドイツの敗北により、現在のタンザニア(ザンジバルを除く)は「タンガニーカ」としてイギリス領に、現在のルアンダおよびブルンジは「ルアンダ=ウルンディ」としてベルギー領に、現在のモザンビークの一部となっている地域はポルトガル領となった。

 で、旅日記…。カンパラからは、ウガンダを北上していくことになる。ここもメイン・ルート…のばすですよねぇ…。マジでっっっ!!!無茶苦茶に、道路事情が悪くなっとるがな〜(笑)。
 更に、雨季は過ぎ去ったと思っていたのに、時折雨がぱらつく…で、道路は、より走りづらくなっていく。さてさて、いつになったら着くのだろうか…。13半時くらいに国境に到着。手続は、何の問題もなく終了。

 無事、ウガンダ共和国を出国。

 無事、南スーダン共和国に入国。

 南スーダンに入国して、正体不明の長時間休憩…。わけが分からんぞ。ここはアフリカ。わけが分からんことが、普通に発生する土地…。南スーダン入国直前に、KESをSSPに両替したので、昼食を食べることにする。チャパティ&エッグ。物価は、けっして安くはないようだ。
 結局、南スーダンの首都ジュバに到着したのは19時くらいだった。ちなみに、ナイロビでは、昼の12時にはジュバに到着すると言われていた記憶が…(笑)。もう、好きにして〜!!!26時間の移動の予定が、30時間半の移動となっただけのことさ!!!付け加えるなら、出発が2時間半ほど遅れたけどね。それも合わせれば、33時間ってことかな!!!

 バスT近くに宿があるという情報を得ていたので、早速、宿を探すことにする。バスTから一番近い宿をセレクト。まあ、そんなに違いはなさそうである。
 ちなみに、宿のクオリティについては、そうとうに低い…。約850円の宿なんだけれど、シャワーはバケツだし、水道はないし、電気は夕方から夜にかけて限定の自家発電。ただし、この宿に限ったことではない。これが、南スーダンという国の実情なのだ。

 両替を試みるも、「100USDノートじゃないと…」という、お馴染みのセリフが待っていた(笑)。はいはい、こんなことくらいでは驚きませんよ。対策を考える方向に思考をチェンジ。とりあえず、20USDのディポジットを払って、両替については翌日にトライすることにした。
 国境で両替したSSPで、ウェルカム・ビールと夕食を購入する。何人かの南スーダン人と接して思ったことは、この国の人は基本的に親切なんだろうということである。
 宿に戻って、ビールを飲みながら夕食を食べる。バケツに汲んだナイル川の水でシャワーをして、昨夜に引き続き『ラスト・フレンズ』を少しばかり見ることに。24時をまわったくらいで、自家発電は終了となった。ファンが止まったことで、グッと蒸し暑さが増してくる。こりゃ、寝るしかないね!!!
 ケニアでの快適な環境から、一気にアフリカらしい環境に…(笑)。どうやら、アフリカの旅が、再び始まったようだ!!!
 

 
ナイロビ→[車内]…ジュバ ナイロビ…[車内]→ジュバ ジュバ
 

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