
荒涼とした景色が広がる

信じられない雪景色

黒い点がヤク

絵葉書のような景色

ラサ旧市街の街並み

左のヤク肉のスープは絶品

初日から「ご当地ビール」
それに白酒まで…
医療関係の
Ekkaさんが笑顔だし
きっと大丈夫でしょう |
夜明けとともに目覚めるオリエント伯爵。OHさんは既に起きていた。眠るのが大好きなChopperさんは当然として、Ekkaさんも夢の中のようである。 列車が何処を走っているのか、正確には分からないものの、広いくくりで言えば、既にチベットに入っていることは確実である。車窓の風景も一変し、ツンドラと雪景色が広がるようになり、羊ではなくヤクの姿が見られるようになる。チベットに来たことを実感。 標高は更に高くなり、最高地点は5068mとのこと。残念ながら、いつ通過したのかは分からなかったけれど…。高山病らしき症状も、しっかりと現れる。未体験の感覚である。
途中の駅では遅れたものの、列車は定刻にラサ駅に到着する。ガイドのギャサンさんと初対面。流暢な英語を話すチベット人で、ハイソサエティな感じが言動からにじみ出ている方である。勝手気儘な4人組にはもったいない方…。 ギャサンさんの案内で宿にチェック・イン。ギャサンさんからシャワーは浴びないようにと注意を受ける…やっぱりね〜。聞いてはいたけれど、本当だったんだな〜。 こう考えると、チョンドゥ(成都)からチベットに向かう場合、日程に余裕があるのならシーニン(西寧)に1泊することは多くの利点がある。第1に高地順応トレーニングになる。第2に2夜連続の車内泊をしなくて済む。第3に約48時間の列車移動を避けることができる。第4に3夜連続でシャワーを浴びれないということがなくなる。
ラサの街は、新市街と旧市街に別れている。旧市街は“中国化”の荒波から、かろうじて逃れることができているようだ。旧市街の街並みは、中国とは別の国であるように思えて仕方がない。この旅で訪れたマカオや香港も中国とは異なる国だと感じたけれど、それらとは比べものにならないほどの違和感を覚えた。 チベット人も、これまでの中国人とは完全に異なる印象を受けた。笑顔が素敵だし、なにより人懐っこい。チベット人よりも、華僑が多く住むために、マレーシアやシンガポールの国民の方が、よっぽど中国人に近い(当たり前だけれど…)。 チベットが中国とは大きく異なることや、パーミットの発行が査証並み(それ以上かもしれない…)に面倒なことを考慮し、今回の旅ではチベットを別な国として扱うことにした。 もちろん、中国人の感覚としては納得がいかないであろう。しかし、越境にパスポートが必要なマカオ・香港も中国なのは当たり前、国際的には信じられないことであるけれど台湾までも中国だと言いはるのが、中国人の感覚なのである。そのような感覚に付き合う必要はないとオリエント伯爵は考える。
チベットが特別なのは、歴史的な背景も大きい。まず、チベットを地理的に定義する。日本では、「チベット自治区=チベット」というのが一般的な考え方であると思われる。しかし、話は簡単ではない。 チベット三州という地理的区分によれば、チベットは、「ウー・ツァン」、「ドトェ」、「ドメー」の3地方に分けることができる。それぞれ、「ウー・ツァン」、「カム」、「アムド」と呼ばれる地方と重なる。 ウー地方の中心都市はラサで、現在のチベット自治区中央部。ツァン地方の中心都市はシガツェで、現在のチベット自治区西部。カム地方の中心都市はダルツェンド(康定)とチャムドで、現在の青海省南東部・四川省西部・雲南省北西部とチベット自治区東部。アムド地方は、現在の青海省のほぼ全域と四川省および甘粛省の一部である。 こうした考え方に則れば、チベット自治区を遥かに超える地域がチベットとなる。ここでは、チベット自治区に限らずに、広いくくりでチベットの歴史を考えてみることにする。
1240年、モンゴル帝国がチベットに侵攻。モンゴル帝国は、サキャ派6代目座主のサキャ・パンディタにチベットの行政権を与える。ちなみに、チベット仏教には、ニンマ派・サキャ派・カギュ派・ゲルク派の4大宗派が存在している。 1358年、サキャ派に替わってパクモドゥ派(カギュ派の支派)が実権を握るものの、外戚のリンプン家との争いが始まる。実権は、1433年にはリンプン家に移り、1565年にはリンプン家重臣のツァン家へと移る。しかし、リンプン・ツァン両家の勢力は強大とはいえず、パクモドゥ派も一定勢力を保ち続けていた。 この争いに、カマル派(カギュ派の支派)とゲルク派の争いが加わる。リンプン・ツァン両家と結びついたのがカマル派であり、パクモドゥ派と結びついたのがゲルク派だった。チベットは混乱の様相を呈していた。 抗争が激化すると、ゲルク派は、モンゴル系オイラト族ホシュート部の部族長だったグーシ・ハーンと結び、1642年、グーシ・ハーンはチベット全土を統一した。こうして、チベットにはグーシ・ハーン王朝が成立し、ゲルク派のダライ・ラマ5世が行政・宗教面での実権を握った。こうして、チベットに久方ぶりの平穏が訪れた。
しかし、平穏は長くは続かなかった。1644年、中国大陸では、清王朝が成立。清王朝5代皇帝雍正帝は、1723年、年羮尭を司令官とする遠征軍をアムド地方に送り、グーシ・ハーン王朝を滅ぼす。 グーシ・ハーン王朝の崩壊にともない、雍正帝はチベットの分割を断行する。この分割により、ウー・ツァン地方はガンデンポタン(ダライ・ラマ政権)が、アムド地方は清王朝が実権を握ることとなった。また、カム地方は、ガンデンポタンと清王朝に二分された。こうして、現在のチベット自治区の原型がつくられたことになる。
清王朝が崩壊すると、中国大陸は混乱の時代を迎える。清王朝崩壊までの間、国際的にチベットを位置づけることは難しい。19世紀にはイギリスの勢力下にあったとみるのが妥当だと思われる。 清王朝崩壊後、ガンデンポタンは失地回復を狙って出兵するものの失敗に終わる。その後、中国大陸は第2次世界大戦の渦の中に巻き込まれていき、チベットは中立を宣言。しかし、どこまで中立を守ることができたのかは疑問とされている。 第2次世界大戦の幕が下りた1945年、中国大陸では国共内戦が再燃。1949年、中国共産党は国共内戦に勝利し、中華人民共和国が成立した。この出来事が、チベットに重大な影響をもたらすことになる。
1950年、張国華を指揮官とする中国軍がチベットに侵攻。チベット自治区東部は、瞬く間に中国軍に占領され、そのまま進駐した。当時は、朝鮮戦争が始まっていたこともあり、国際社会の反応は薄く、わずかにインドとイギリスが非難声明を発表したに過ぎなかった。 また、国連加盟国であったは中華民国は、台湾に追いやられていたにもかかわらず、愚かにもチベットは自国領であるという馬鹿げた立場を貫いたことも国際社会が行動しづらかった原因となった。 こうした中、ガンデンポタンは、中国に使節団を派遣し、自らの意思を伝えることとした。この使節団は全権大使ではなかったものの、中国は「十七か条協定」を締結させた。全権大使ではないのだから、この協定が無効であることは、国際的には明白である。 しかし、中国は力づく(深い意味がある…)で協定を承認させることに成功。ガンデンポタンの自治を認めるとともに、その支配地域をチベット自治区に限定させた。
こうしてガンデンポタンの自治は約束されたものの、チベット自治区以外のチベットでは中国共産党による“改革”が始まった。宗教を認めない中国共産党の方針が、チベット仏教とともに生きてきたチベット人に受け入れられるはずはなかった。 1954年から、カム東部で「カムの反乱」が始まった。1956年から戦闘は激化し、中国軍が大量に送り込まれた。1957年には、チベットに20万人の中国軍が展開し、そのうち15万人がカム東部に配置されていたとされる。 リタン(理塘)のカンブー族の首領ゴンボ・タシは、CIAと接触し本格的なゲリラ部隊である「チュシ・ガンドゥク」を結成する。ゲリラ部隊は中国軍を駆逐することにも成功する。
チベットの戦闘が泥沼化する中、1959年、ダライ・ラマ14世に観劇の誘いが中国軍から届く。場所はラサに進駐している中国軍司令部で、更に武装警備隊の同行も禁じられた。 この話がラサ市民に伝わると、ダライ・ラマ14世を中国軍が誘拐するのではという恐怖心から、約30万人の市民がノルブリンカ宮殿を取り囲んだ。こうした混乱の中、ダライ・ラマ14世はラサを脱出し、インドに亡命した。これら一連の出来事は、「ラサ蜂起」と呼ばれている。 ダライ・ラマ14世が脱出した後、中国軍はラサに攻撃を始める。ノルブリンカ宮殿を始め、サラ寺・ガンデン寺・デプン寺も砲撃を受けた。特に、サラ寺とデプン寺は壊滅的打撃を受けたとされる。
こうして、チベットは中華人民共和国の一部として扱われることとなった。 |